やったらそれは倒れるのがあたりまえで、倒れても当然とご批判を願いたいのであります。
しかし大刊行物たるに違いないので、これに索引が出来ますと、これはインドを見る鏡のようなもので、インドの研究はシナの一切経を研究しなければ分らぬというて差支えない。それを研究しなければ最後の断案を下すことが出来ないといってよい。思想方面は殊にそうである。インドの思想方面というものがヨーロッパの人の着目している所で、ヨーロッパの倫理も行き詰まり、宗教も行き詰まり、すべてに行き詰まって、それまで馬鹿にしておったインドの説を聴かなければならぬような時期になっている。インドに行って思想を研究しようと思うと、インドの山の中に入らなければならぬ。しかもインド人は西洋人の手では、一向要領を得ることが出来ないが、その思想の写真が一切経という大きなものになって、しかもそれが間違いのない遺憾のないという点まで押し付けての研究が出来る。まず自分で手に握ることの出来るものでインドを研究する。前は歴史的のまた地理的のことはシナの法顕三蔵、玄奘三蔵、義浄三蔵の書いたものによってインドの研究を始めたのでありますが、今度細かい内容の思想までも知ろうとするにはどうしても一切経に依らなければならぬ。それで北京に於てはバロン・ステール・ホルンスタインがアメリカと連絡をとって研究所を建ててやっておりますが、大きな研究会を作って、ボストンとハーバードと北京とで連絡をとってやっておりますが、どうしても日本を棄てる訳にいかない。というのはこれだけの材料が日本にあり、この材料を読みこなすことはどうしても西洋人には出来ない。どうしてもこれを研究いたしますのには西蔵語を知らなければならぬ。サンスクリットを知らなければならぬ。漢文は自由に読めなければならぬ。また信仰的にも学術的にも相当仏教のことを知っておらなければならぬ。だからいくら賢明の西洋人でも一人ではやり遂げることは出来ない。一人仏教の分るものを北京に招致したいということであったので成田昌信君が行っております。材料だけは日本で整理してやりたいという考えでありますが、向うもなかなか放っておかない。
日仏会館ではフランスからレビー氏とか、フシエ氏とか、マスベロ氏というような学者が来て相助けて日仏仏教辞書の編纂中であります。日本の仏教辞書をフランス語に訳して日仏仏教辞典法宝義林をいま
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