ありますが、これは余計ありませぬ。正倉院の正語蔵にあるが、その時には見ることが出来なかった。石山寺のは田舎写しの経本でありますが、とにかく天平写経である。それと較べて見たら大体分るだろうというので大般若経だけ持って行きまして石山寺で較べて見ました。そうすると石山寺に残っている写本の方が版本よりは遙かに良い。今まで度々刊行した物の中に半頁ばかりも落ちたのがある。それから文字のまるで違ったのがある。写本の方を見ると、こっちの版本の方は解することが出来ないような所が明瞭に解し得ることをも見付けましたが、その時にちょうど前のイギリス大使のサー・チャールス・エリオットがおった。この人はいま奈良に逗留して日本の大乗仏教を研究しておりますが、ちょうど私が石山寺に行って調べていると、来山して黙って私の調べを見ている。東寺でも二度きましたが青蓮院には前後三度きました。それから高野にいる時も一度きました。石山寺にいる時には二度きました。
私が「天平時代の写経を版本がいいか写本がいいか比較して見ている」といったら「結果はどうか」と尋ねる。「それは写本の方がよほどいい」というと「今まで出版する時に比較したことがあるか」「曽てなかった」「何故しないか」「理由は分らないが、古版本をそのまま用いたのである」「それじゃいよいよそれがいいということを知ったらお前はやる気か、やらぬ気か」「それはやったらどうだろうかという考えを決めようと思って見ているのだ」「それは直ぐにやらなければならぬ、これはいったい何時頃の物か」「西暦で七百五十年の奈良時代の物だ」「八世紀の物が、もし西洋にあったら、しかもそれがバイブルに関係した物であったら耶蘇教者は一寸刻みにして研究するだろう。それにこんなにたくさんあるじゃないか。天平の写経が石山寺に[#「石山寺に」は底本では「石寺山に」]十箱ある。こんなにたくさんある物を比較しないということは日本学者の恥だ。またこれを比較したが、それを出版しないということは不都合である」というような話をした。その日は帰ってまた翌日来る。同じ話をした。実は私が一切経を出版しますことを初めて決心しましたのはその時であります。それまでは費用のことを考え、出版後の売行きをも考え、今までも既に出しているのにまた出すというのは不必要だというふうにいろいろ考えておったが、写本が正しい、良いということが分
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