頭山は雪山の尼波羅国にもある、中アのコータンにもあった。シナには牛頭山、牛角山というのが三カ所もある。新羅にもあるべきである。これが牛頭里であると思う。この法道は王舎城の人であるのに、祇園精舎の鎮守を持って来て、なぜ王舎城の鎮守を持って来なかったろうかと考えて見ますと、やはり持ってきております。これは書いたものはありませぬけれども金毘羅社である。金毘羅神というのは王舎城の鎮守で王舎城の北の出口の所にある、向って左の山がちょうど象の頭によく似ている、これが象頭《ぞうづ》山というのである。一名は毘富羅《ヒブラ》山ともいう。象頭山の金比羅夜叉といってこれが王舎城の鎮守である。そして讃岐の象頭山にも金毘羅を祭り、そして内海を進んで赤穂から上陸して広峰の牛頭社を立てたのであろう。
たいてい仏教と一緒に渡来した神様ならば「儀軌」といって祭式が明らかに教えられてある筈である。神様を拝む特別の方法が教えてあるのであるが、金毘羅に関してはそういふ儀軌がない。経もあるが偽書である。多分法道がインドから日本に着して赤穂に上陸する前に金比羅神を讃州の象頭山に祭り、牛頭天王を上陸後広峰に祭ったのであろうと思う。そういうふうにいろいろとインドと直接の関係があるのであります。こういうふうに考えていくと仏教、風俗、儀式、美術、薬物、遊戯に至るまで辿って行けば面白い研究でありますが今日はそれくらいにしておきまして、インド文明の大波が北と南とを通って東方に移って来たことを今少し話したい。普通はシナに一応伝わりもしくは朝鮮に伝わったのを日本が受けたのでありますが、そうでなく前に述べたように直接にインド人が日本にきて伝えたものも相当ある。そしてこれは実地に移したのでありますから日本にとって非常に深い関係を持つのであるということを知っておかなければならぬのであります。而して然らば今日の主題たる一切経がどういうぐあいに日本にきたかということを述べ、そしてどうして出版する運びになったかということを少しお話いたしたいと思うのであります。
五
仏が涅槃に入られる時に、「我入滅すとも我所説の法は滅不滅である、我所説の法以て汝が師と為せよ」といわれた。自分の肉身、即ち親身は滅しても法身は常住である、肉としての自身は亡びても法としての自身を大切にせよと言われたのである。それを字義通りに大切にする
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