ワルシヤワの借金《しやくきん》を拂《はら》はぬので、内心《ないしん》の苦《くる》しく有《あ》るのと、恥《はづか》しく有《あ》る所《ところ》から、餘計《よけい》に強《し》ひて氣《き》を張《は》つて、大聲《おほごゑ》で笑《わら》ひ、高調子《たかてうし》で饒舌《しやべ》るので有《あ》るが、彼《かれ》の話《はなし》にはもう倦厭《うんざ》りしてゐるアンドレイ、エヒミチは、聞《き》くのもなか/\に大儀《たいぎ》で、彼《かれ》が來《く》ると何時《いつ》もくるりと顏《かほ》を壁《かべ》に向《む》けて、長椅子《ながいす》の上《うへ》に横《よこ》になつた切《き》り、而《さう》して齒《は》を切《くひしば》つてゐるのであるが、其《そ》れが段々《だん/\》度重《たびかさ》なれば重《かさな》る程《ほど》、堪《たま》らなく、終《つひ》には咽喉《のど》の邊《あた》りまでがむづ/\して來《く》るやうな感《かん》じがして來《き》た。
(十六)
或日《あるひ》郵便局長《いうびんきよくちやう》ミハイル、アウエリヤヌヰチは、中食後《ちゆうじきご》にアンドレイ、エヒミチの所《ところ》を訪問《はうもん》した。アンドレイ、エヒミチは猶且《やはり》例《れい》の長椅子《ながいす》の上《うへ》。すると丁度《ちやうど》ハヾトフもブローミウム加里《カリ》の壜《びん》を携《たづさ》へて遣《や》つて來《き》た。アンドレイ、エヒミチは重《おも》さうに、辛《つら》さうに身《み》を起《おこ》して腰《こし》を掛《か》け、長椅子《ながいす》の上《うへ》に兩手《りやうて》を突張《つツぱ》る。
『いや今日《こんにち》は、おゝ君《きみ》は今日《けふ》は顏色《かほいろ》が昨日《きのふ》よりも又《また》ずツと可《い》いですよ。まづ結構《けつこう》だ。』と、ミハイル、アウエリヤヌヰチは挨拶《あいさつ》する。
『もう全快《ぜんくわい》しても可《い》いでせう。』とハヾトフは欠《あくび》をしながら言《ことば》を添《そ》へる、
『平癒《なほ》りますとも、而《さう》してもう百|年《ねん》も生《い》きまさあ。』と、郵便局長《いうびんきよくちやう》は愉快氣《ゆくわいげ》に云《い》ふ。
『百|年《ねん》てさうも行《ゆ》かんでせうが、二十|年《ねん》や其邊《そこら》は生《い》き延《の》びますよ。』ハヾトフは慰《なぐさ》め顏《がほ》。『何《なん》んでも有《あ》りませんさ、なあ同僚《どうれう》。悲觀《ひくわん》ももう大抵《たいてい》になさるが可《い》いですぞ。』
『我々《われ/\》は未《ま》だ隱居《いんきよ》するには早《はや》いです。ハヽヽ左樣《さう》でせうドクトル、未《ま》だ隱居《いんきよ》するのには。』郵便局長《いうびんきよくちやう》は云《い》ふ。
『來年《らいねん》邊《あたり》はカフカズへ出掛《でか》けやうぢや有《あ》りませんか、乘馬《じようば》で以《もつ》てからに彼方此方《あちこち》を驅廻《かけまは》りませう。而《さう》してカフカズから歸《かへ》つたら、此度《こんど》は結婚《けつこん》の祝宴《しゆくえん》でも擧《あ》げるやうになりませう。』と片眼《かため》をパチ/\して。『是非《ぜひ》一つ君《きみ》を結婚《けつこん》させやう……ねえ、結婚《けつこん》を。』
アンドレイ、エヒミチはむかツと[#「むかツと」に傍点]して立上《たちあが》つた。
『失敬《しつけい》な!』と、一言《ひとこと》叫《さけ》ぶなりドクトルは窓《まど》の方《はう》に身《み》を退《よ》け。『全體《ぜんたい》貴方々《あなたがた》は這麼失敬《こんなしつけい》な事《こと》を言《い》つてゐて、自分《じぶん》では氣《き》が着《つ》かんのですか。』
柔《やはら》かに言《い》ふ意《つもり》で有《あ》つたが、意《い》に反《はん》して荒々《あら/\》しく拳《こぶし》をも固《かた》めて頭上《かしらのうへ》に振翳《ふりかざ》した。
『餘計《よけい》な世話《せわ》は燒《や》かんでも可《い》い。』益※[#二の字点、1−2−22]《ます/\》荒々《あら/\》しくなる。
『二人《ふたり》ながら歸《かへ》つて下《くだ》さい、さあ、出《で》て行《ゆ》きなさい。』
自分《じぶん》の聲《こゑ》では無《な》い聲《こゑ》で顫《ふる》へながら叫《さけ》ぶ。
ミハイル、アウエリヤヌヰチとハヾトフとは呆氣《あつけ》に取《と》られて瞶《みつ》めてゐた。
『二人《ふたり》とも、さあ出《で》てお行《い》でなさい。さあ。』アンドレイ、エヒミチは未《ま》だ叫《さけ》び續《つゞ》けてゐる。『鈍痴漢《とんちんかん》の、薄鈍《うすのろ》な奴等《やつら》、藥《くすり》も絲瓜《へちま》も有《あ》るものか、馬鹿《ばか》な、輕擧《かるはずみ》な!』ハヾトフと郵便局長《いうびんきよくちやう》とは、此《こ》の權幕《けんまく》に辟易《へきえき》して戸口《とぐち》の方《はう》に狼狽《まご/\》出《で》て行《ゆ》く。ドクトルは其後《そのあと》を睨《にら》めてゐたが、匆卒《ゆきなり》ブローミウム加里《カリ》の壜《びん》を取《と》るより早《はや》く、發矢《はつし》と計《ばか》り其處《そこ》に投《なげ》付《つけ》る、壜《びん》は微塵《みぢん》に粉碎《ふんさい》して了《しま》ふ。
『畜生《ちくしやう》! 行《ゆ》け! さツさと行《ゆ》け!』と彼《かれ》は玄關迄《げんくわんまで》駈出《かけだ》して、泣聲《なきごゑ》を上《あ》げて怒鳴《どな》る。『畜生《ちくしやう》!』
客等《きやくら》が立去《たちさ》つてからも、彼《かれ》は一人《ひとり》で未《ま》だ少時《しばらく》惡體《あくたい》を吻《つ》いてゐる。然《しか》し段々《だん/\》と落着《おちつ》くに隨《したが》つて、有繋《さすが》にミハイル、アウエリヤヌヰチに對《たい》しては氣《き》の毒《どく》で、定《さだ》めし恥入《はぢい》つてゐる事《こと》だらうと思《おも》へば。あゝ思慮《しりよ》、知識《ちしき》、解悟《かいご》、哲學者《てつがくしや》の自若《じゝやく》、夫《そ》れ將《は》た安《いづく》にか在《あ》ると、彼《かれ》は只管《ひたすら》に思《おも》ふて、慙《は》ぢて、自《みづか》ら赤面《せきめん》する。
其夜《そのよ》は慙恨《ざんこん》の情《じやう》に驅《か》られて、一|睡《すゐ》だも爲《せ》ず、翌朝《よくてう》遂《つひ》に意《い》を決《けつ》して、局長《きよくちやう》の所《ところ》へと詫《わび》に出掛《でかけ》る。
『いやもう過去《くわこ》は忘《わす》れませう。』と、ミハイル、アウエリヤヌヰチは固《かた》く彼《かれ》の手《て》を握《にぎ》つて云《い》ふた。『過去《くわこ》の事《こと》を思《おも》ひ出《だ》すものは、兩眼《りやうがん》を抉《くじ》つて了《しま》ひませう。リユバフキン!』と、彼《かれ》は大聲《おほごゑ》で誰《だれ》かを呼《よ》ぶ。郵便局《いうびんきよく》の役員《やくゐん》も、來合《きあ》はしてゐた人々《ひと/″\》も、一|齊《せい》に吃驚《びつくり》する。『椅子《いす》を持《も》つて來《こ》い。貴樣《きさま》は待《ま》つて居《を》れ。』と、彼《かれ》は格子越《かうしごし》に書留《かきとめ》の手紙《てがみ》を彼《かれ》に差出《さしだ》してゐる農婦《のうふ》に怒鳴《どな》り付《つけ》る。『俺《おれ》の用《よう》の有《あ》るのが見《み》えんのか。いや過去《くわこ》は思《おも》ひ出《だ》しますまい。』と彼《かれ》は調子《てうし》を一|段《だん》と柔《やさ》しくしてアンドレイ、エヒミチに向《むか》つて云《い》ふ。『さあ君《きみ》、掛《か》け給《たま》へ、さあ何卒《どうか》。』
一|分間《ぷんかん》默《もく》して兩手《りやうて》で膝《ひざ》を擦《こす》つてゐた郵便局長《いうびんきよくちやう》は又《また》云出《いひだ》した。
『私《わたくし》は決《けつ》して君《きみ》に對《たい》して立腹《りつぷく》は致《いた》さんので、病氣《びやうき》なれば據無《よんどころな》いのです、お察《さつ》し申《もを》すですよ。昨日《きのふ》も君《きみ》が逆上《のぼせ》られた後《のち》、私《わたし》はハヾトフと長《なが》いこと、君《きみ》のことを相談《さうだん》しましたがね、いや君《きみ》も此度《こんど》は本氣《ほんき》になつて、病氣《びやうき》の療治《れうぢ》を遣《や》り給《たま》はんと可《い》かんです。私《わたし》は友人《いうじん》として何《なに》も彼《か》も打明《うちあ》けます。』と、彼《かれ》は更《さら》に續《つゞ》けて。『全體《ぜんたい》君《きみ》は不自由《ふじいう》な生活《せいくわつ》をされてゐるので、家《いへ》と云《い》へば清潔《せいけつ》でなし、君《きみ》の世話《せわ》をする者《もの》は無《な》し、療治《れうぢ》をするには錢《ぜに》は無《な》し。ねえ君《きみ》、で我々《われ/\》は切《せつ》に君《きみ》に勸《すゝ》めるのだ。何卒《どうぞ》是非《ぜひ》一つ聽《き》いて頂《いたゞ》きたい、と云《い》ふのは、實《じつ》は然云《さうい》ふ譯《わけ》であるから、寧《むしろ》君《きみ》は病院《びやうゐん》に入《はひ》られた方《はう》が得策《とくさく》であらうと考《かんが》へたのです。ねえ君《きみ》、病院《びやうゐん》は未《ま》だ比較的《ひかくてき》、食物《しよくもつ》は好《よ》し、看護婦《かんごふ》はゐる、エウゲニイ、フエオドロヰチもゐる。其《そ》れは勿論《もちろん》、是《これ》は我々丈《われ/\だけ》の話《はなし》だが、彼《かれ》は餘《あま》り尊敬《そんけい》をすべき人格《じんかく》の男《をとこ》では無《な》いが、術《じゆつ》に掛《か》けては又《また》なか/\侮《あなど》られんと思《おも》ふ。で願《ねがは》くはだ、君《きみ》、何卒《どうぞ》一つ充分《じゆうぶん》に彼《かれ》を信《しん》じて、療治《れうぢ》を專《せん》一にして頂《いたゞ》きたい。彼《かれ》も私《わたし》に屹度《きつと》君《きみ》を引受《ひきう》けると云《い》つてゐたよ。』
アンドレイ、エヒミチは此《こ》の切《せつ》なる同情《どうじやう》の言《ことば》と、其上《そのうへ》涙《なみだ》をさへ頬《ほゝ》に滴《た》らしてゐる郵便局長《いうびんきよくちやう》の顏《かほ》とを見《み》て、酷《ひど》く感動《かんどう》して徐《しづか》に口《くち》を開《ひら》いた。
『君《きみ》は彼等《かれら》を信《しん》じなさるな。嘘《うそ》なのです。私《わたし》の病氣《びやうき》と云《い》ふのは抑《そも/\》恁《か》うなのです。二十|年來《ねんらい》、私《わたし》は此《こ》の町《まち》にゐて唯《たゞ》一人《ひとり》の智者《ちしや》に遇《あ》つた。所《ところ》が其《そ》れは狂人《きちがひ》で有《あ》ると云《い》ふ、是丈《これだけ》の事實《じゝつ》です。で私《わたし》も狂人《きちがひ》にされて了《しま》つたのです。然《しか》しなあに私《わたし》は奈何《どう》でも可《い》いので、からして畢竟《つまり》何《なん》にでも同意《どうい》を致《いた》しませう。』
『病院《びやうゐん》へお入《はひ》りなさい、ねえ君《きみ》。』
『左樣《さやう》、奈何《どう》でも可《い》いです、縱令《よしんば》穴《あな》の中《なか》に入《はひ》るのでも。』
『で、君《きみ》は萬事《ばんじ》エウゲニイ、フエオドロヰチの言《ことば》に從《したが》ふやうに、ねえ君《きみ》、頼《たの》むから。』
『宜《よろ》しい、私《わたし》は今《いま》は實《じつ》以《もつ》て二《につ》ちも三《さつ》ちも行《ゆ》かん輪索《わな》に陷沒《はま》つて了《しま》つたのです。もう萬事休矣《おしまひ》です覺悟《かくご》はしてゐます。』
『いや屹度《きつと》平癒《なほる》ですよ。』
格子《こうし》の外《そと》には公衆《こうしゆう》が次第《しだい》に群《むらが》つて來《く》る。アンドレイ、エヒミチは、ミハイル、アウエリヤヌヰチの公務《こうむ》の邪魔《じやま》を爲《す》るのを恐《おそ》れて、話《はなし
前へ
次へ
全20ページ中17ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
瀬沼 夏葉 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング