の上《うへ》に横《よこ》になり、麥酒《ビール》を呑《の》む時《とき》に丈《だ》け起《おき》る。
 ミハイル、アウエリヤヌヰチは、始終《しゞゆう》ワルシヤワへ早《はや》く行《ゆ》かうと計《ばか》り云《い》ふてゐる。
『然《しか》し君《きみ》、私《わたし》は何《なに》もワルシヤワへ行《ゆ》く必要《ひつえう》は無《な》いのだから、君《きみ》一人《ひとり》で行《ゆ》き給《たま》へ、而《さう》して私《わたし》を何卒《どうぞ》先《さき》に故郷《こきやう》に歸《かへ》して下《くだ》さい。』アンドレイ、エヒミチは哀願《あいぐわん》するやうに云《い》ふた。
『飛《とん》だ事《こと》さ。』と、ミハイル、アウエリヤヌヰチは聽入《きゝい》れぬ。『ワルシヤワこそ君《きみ》に見《み》せにやならん、僕《ぼく》が五|年《ねん》の幸福《かうふく》な生涯《しやうがい》を送《おく》つた所《ところ》だ。』
 アンドレイ、エヒミチは例《れい》の氣質《きしつ》で、其《そ》れでもとは云《い》ひ兼《か》ね、遂《つひ》に又《また》嫌々《いや/\》ながらワルシヤワにも行《い》つた。其處《そこ》でも彼《かれ》は宿《やど》から出《で》ずに、終日《しゆうじつ》相變《あひかは》らず長椅子《ながいす》の上《うへ》に轉《ころ》がり、相變《あひかは》らず友《とも》の擧動《きよどう》に愛想《あいさう》を盡《つ》かしてゐる。ミハイル、アウエリヤヌヰチは一人《ひとり》して元氣可《げんきよ》く、朝《あさ》から晩迄《ばんまで》町《まち》を遊《あそ》び歩《ある》き、舊友《きういう》を尋《たづ》ね廻《まは》り、宿《やど》には數度《すうど》も歸《かへ》らぬ夜《よ》が有《あ》つた位《くらゐ》。と、或朝《あるあさ》早《はや》く非常《ひじやう》に興奮《こうふん》した樣子《やうす》で、眞赤《まつか》な顏《かほ》をし、髮《かみ》も茫々《ばう/\》として宿《やど》に歸《かへ》つて來《き》た。而《さう》して何《なに》か獨語《ひとりごと》しながら、室内《しつない》を隅《すみ》から隅《すみ》へと急《いそ》いで歩《ある》く。
『名譽《めいよ》は大事《だいじ》だ。』
『然《さ》うだ名譽《めいよ》が大切《たいせつ》だ。全體《ぜんたい》這麼町《こんなまち》に足《あし》を踏込《ふみこ》んだのが間違《まちが》ひだつた。』と、彼《かれ》は更《さら》にドクトルに向《むか》つて云《い》ふた。『實《じつ》は私《わたし》は負《ま》けたのです。で、奈何《どう》でせう、錢《ぜに》を五百|圓《ゑん》貸《か》しては下《くだ》さらんか?』
 アンドレイ、エヒミチは錢《ぜに》を勘定《かんぢやう》して、五百|圓《ゑん》を無言《むごん》で友《とも》に渡《わた》したのである。ミハイル、アウエリヤヌヰチは未《ま》だ眞赤《まつか》になつて、面目無《めんぼくな》いやうな、怒《おこ》つたやうな風《ふう》で。『屹度《きつと》返却《かへ》します、屹度《きつと》。』などと誓《ちか》ひながら、又《また》帽《ばう》を取《と》るなり出《で》て行《い》つた。が、大約《おほよそ》二|時間《じかん》を經《た》つてから歸《かへ》つて來《き》た。
『お蔭《かげ》で名譽《めいよ》は助《たす》かつた。もう出發《しゆつぱつ》しませう。這麼不徳義《こんなふとくぎ》極《きはま》る所《ところ》に一|分《ぷん》だつて留《とゞま》つてゐられるものか。掏摸《すり》ども奴《め》、墺探《あうたん》ども奴《め》。』
 二人《ふたり》が旅行《りよかう》を終《を》へて歸《かへ》つて來《き》たのは十一|月《ぐわつ》、町《まち》にはもう深雪《みゆき》が眞白《まつしろ》に積《つも》つてゐた。アンドレイ、エヒミチは歸《かへ》つて見《み》れば自分《じぶん》の位置《ゐち》は今《いま》はドクトル、ハヾトフの手《て》に渡《わた》つて、病院《びやうゐん》の官宅《くわんたく》を早《はや》く明渡《あけわた》すのをハヾトフは待《ま》つてゐるといふとの事《こと》、又《また》其《そ》の下女《げぢよ》と名《な》づけてゐた醜婦《しうふ》は、此《こ》の間《あひだ》から、別室《べつしつ》の内《うち》の或《あ》る處《ところ》に移轉《いてん》した。町《まち》には、病院《びやうゐん》の新院長《しんゐんちやう》に就《つ》いての種々《いろ/\》な噂《うはさ》が立《た》てられてゐた。下女《げぢよ》と云《い》ふ醜婦《しうふ》が會計《くわいけい》と喧嘩《けんくわ》をしたとか、會計《くわいけい》は其女《そのをんな》の前《まへ》に膝《ひざ》を折《を》つて謝罪《しやざい》したとか、と。
 アンドレイ、エヒミチは歸來《かへり》早々《さう/\》先《ま》づ其住居《そのすまひ》を尋《たづ》ねねばならぬ。
『不遠慮《ぶゑんりよ》な御質問《おたづね》ですがなあ君《きみ》。』と郵便局長《いうびんきよくちやう》はアンドレイ、エヒミチに向《むか》つて云《い》ふた。
『貴方《あなた》は何位《どのくらゐ》財産《ざいさん》をお所有《も》ちですか?』
 問《と》はれて、アンドレイ、エヒミチは默《もく》した儘《まゝ》、財嚢《さいふ》の錢《ぜに》を數《かぞ》へ見《み》て。『八十六|圓《ゑん》。』
『否《いえ》、然《さ》うぢやないのです。』ミハイル、アウエリヤヌヰチは更《さら》に云直《いひなほ》す。『其《そ》の、君《きみ》の財産《ざいさん》は總計《そうけい》で何位《どのくらゐ》と云《い》ふのを伺《うかゞ》うのさ。』
『だから總計《そうけい》八十六|圓《ゑん》と申《まを》してゐるのです。其切《それぎ》り私《わたし》は一|文《もん》も所有《も》つちや居《を》らんので。』
 ミハイル、アウエリヤヌヰチはドクトルの廉潔《れんけつ》で、正直《しやうぢき》で有《あ》るのは豫《かね》ても知《し》つてゐたが、然《しか》し其《そ》れにしても、二萬|圓《ゑん》位《ぐらゐ》は確《たしか》に所有《もつ》てゐることゝのみ思《おも》ふてゐたのに、恁《か》くと聞《き》いては、ドクトルが恰《まる》で乞食《こじき》にも等《ひと》しき境遇《きやうぐう》と、思《おも》はず涙《なみだ》を落《おと》して、ドクトルを抱《いだ》き締《し》め、聲《こゑ》を上《あ》げて泣《な》くので有《あ》つた。

       (十五)

 ドクトル、アンドレイ、エヒミチはベローワと云《い》ふ婦《をんな》の小汚《こぎた》ない家《いへ》の一|間《ま》を借《か》りることになつた。彼《かれ》は前《まへ》のやうに八|時《じ》に起《お》きて、茶《ちや》の後《のち》は直《すぐ》に書物《しよもつ》を樂《たの》しんで讀《よ》んでゐたが、此《こ》の頃《ごろ》は新《あたら》しい書物《しよもつ》も買《か》へぬので、古本計《ふるほんばか》り讀《よ》んでゐる爲《せゐ》か、以前程《いぜんほど》には興味《きようみ》を感《かん》ぜぬ。或時《あるとき》徒然《つれ/″\》なるに任《まか》せて、書物《しよもつ》の明細《めいさい》な目録《もくろく》を編成《へんせい》し、書物《しよもつ》の背《せ》には札《ふだ》を一々|貼付《はりつ》けたが、這麼機械的《こんなきかいてき》な單調《たんてう》な仕事《しごと》が、却《かへ》つて何故《なにゆゑ》か奇妙《きめう》に彼《かれ》の思想《しさう》を弄《ろう》して、興味《きようみ》をさへ添《そ》へしめてゐた。
 彼《かれ》は其後《そのご》病院《びやうゐん》に二|度《ど》イワン、デミトリチを尋《たづ》ねたので有《あ》るがイワン、デミトリチは二|度《ど》ながら非常《ひじやう》に興奮《こうふん》して、激昂《げきかう》してゐた樣子《やうす》で、饒舌《しやべ》る事《こと》はもう飽《あ》きたと云《い》つて彼《かれ》を拒絶《きよぜつ》する。彼《かれ》は詮方《せんかた》なくお眠《やす》みなさい、とか、左樣《さやう》なら、とか云《い》つて出《で》て來《こ》やうとすれば、『勝手《かつて》にしやがれ。』と怒鳴《どな》り付《つ》ける權幕《けんまく》。ドクトルも其《そ》れからは行《ゆ》くのを見合《みあ》はせてはゐるものゝ、猶且《やはり》行《ゆ》き度《た》く思《おも》ふてゐた。
 前《さき》には彼《かれ》は中食後《ちうじきご》は、屹度《きつと》室《へや》の隅《すみ》から隅《すみ》へと歩《ある》いて考《かんが》へに沈《しづ》んでゐるのが常《つね》で有《あ》つたが、此《こ》の頃《ごろ》は中食《ちうじき》から晩《ばん》の茶《ちや》の時迄《ときまで》は、長椅子《ながいす》の上《うへ》に横《よこ》になる。と、毎《いつ》も妙《めう》な一つ思想《しさう》が胸《むね》に浮《うか》ぶ。其《そ》れは自分《じぶん》が二十|年以上《ねんいじやう》も勤務《つとめ》を爲《し》てゐたのに、其《そ》れに對《たい》して養老金《やうらうきん》も、一|時金《じきん》も呉《く》れぬ事《こと》で、彼《かれ》は其《そ》れを思《おも》ふと殘念《ざんねん》で有《あ》つた。勿論《もちろん》餘《あま》り正直《しやうぢき》には務《つと》めなかつたが、年金《ねんきん》など云《い》ふものは、縱令《たとひ》、正直《しやうぢき》で有《あ》らうが、無《な》からうが、凡《すべ》て務《つと》めた者《もの》は受《う》けべきで有《あ》る。勳章《くんしやう》だとか、養老金《やうらうきん》だとか云《い》ふものは、徳義上《とくぎじやう》の資格《しかく》や、才能《さいのう》などに報酬《はうしう》されるのではなく、一|般《ぱん》に勤務《つとめ》其物《そのもの》に對《たい》して報酬《はうしう》されるので有《あ》る。然《しか》らば何《なん》で自分計《じぶんばか》り報酬《はうしう》をされぬので有《あ》らう。又《また》今更《いまさら》考《かんが》へれば旅行《りよかう》に由《よ》りて、無慘々々《むざ/\》と惜《あた》ら千|圓《ゑん》を費《つか》ひ棄《す》てたのは奈何《いか》にも殘念《ざんねん》。酒店《さかや》には麥酒《ビール》の拂《はらひ》が三十二|圓《ゑん》も滯《とゞこほ》る、家賃《やちん》とても其通《そのとほ》り、ダリユシカは密《ひそか》に古服《ふるふく》やら、書物《しよもつ》などを賣《う》つてゐる。此際《このさい》彼《か》の千|圓《ゑん》でも有《あ》つたなら、甚麼《どんな》に役《やく》に立《た》つ事《こと》かと。
 彼《かれ》は又《また》恁《かゝ》る位置《ゐち》になつてからも、人《ひと》が自分《じぶん》を抛棄《うつちや》つては置《お》いて呉《く》れぬのが、却《かへ》つて迷惑《めいわく》で殘念《ざんねん》で有《あ》つた。ハヾトフは折々《をり/\》病氣《びやうき》の同僚《どうれう》を訪問《はうもん》するのは、自分《じぶん》の義務《ぎむ》で有《あ》るかのやうに、彼《かれ》の所《ところ》に蒼蠅《うるさ》く來《く》る。彼《かれ》はハヾトフが嫌《いや》でならぬ。其滿足《そのまんぞく》な顏《かほ》、人《ひと》を見下《みさげ》るやうな樣子《やうす》、彼《かれ》を呼《よ》んで同僚《どうれう》と云《い》ふ言《ことば》、深《ふか》い長靴《ながぐつ》、此等《これら》は皆《みな》氣障《きざ》でならなかつたが、殊《こと》に癪《しやく》に障《さは》るのは、彼《かれ》を治療《ちれう》する事《こと》を自分《じぶん》の務《つとめ》として、眞面目《まじめ》に治療《ちれう》をしてゐる意《つもり》なのが。で、ハヾトフは訪問《はうもん》をする度《たび》に、屹度《きつと》ブローミウム加里《カリ》の入《はひ》つた壜《びん》と、大黄《だいおう》の丸藥《ぐわんやく》とを持《も》つて來《く》る。
 ミハイル、アウエリヤヌヰチも猶且《やはり》、初中終《しよつちゆう》、アンドレイ、エヒミチを訪問《たづ》ねて來《き》て、氣晴《きばらし》を爲《さ》せることが自分《じぶん》の義務《ぎむ》と心得《こゝろえ》てゐる。で、來《く》ると、宛然《まるで》空々《そら/″\》しい無理《むり》な元氣《げんき》を出《だ》して、強《し》ひて高笑《たかわらひ》をして見《み》たり、今日《けふ》は非常《ひじやう》に顏色《かほいろ》が好《い》いとか、何《なん》とか、
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