《また》モイセイカは同室《どうしつ》の者《もの》にも至《いた》つて親切《しんせつ》で、水《みづ》を持《も》つて來《き》て遣《や》り、寐《ね》る時《とき》には布團《ふとん》を掛《か》けて遣《や》りして、町《まち》から一|錢《せん》づつ貰《もら》つて來《き》て遣《や》るとか、各《めい/\》に新《あたら》しい帽子《ばうし》を縫《ぬ》つて遣《や》るとかと云《い》ふ。左《ひだり》の方《はう》の中風患者《ちゆうぶくわんじや》には始終《しゞゆう》匙《さじ》でもつて食事《しよくじ》をさせる。彼《かれ》が恁《か》くするのは、別段《べつだん》同情《どうじやう》からでもなく、と云《い》つて、或《あ》る情誼《じやうぎ》からするのでもなく、唯《たゞ》右《みぎ》の隣《となり》にゐるグロモフと云《い》ふ人《ひと》に習《なら》つて、自然《しぜん》其眞似《そのまね》をするので有《あ》つた。
イワン、デミトリチ、グロモフは三十三|歳《さい》で、彼《かれ》は此室《このしつ》での身分《みぶん》の可《い》いもの、元來《もと》は裁判所《さいばんしよ》の警吏《けいり》、又《また》縣廳《けんちやう》の書記《しよき》をも務《つと》めたので。彼《かれ》は人《ひと》が自分《じぶん》を窘逐《きんちく》すると云《い》ふ事《こと》を苦《く》にしてゐる瘋癲患者《ふうてんくわんじや》、常《つね》に寐臺《ねだい》の上《うへ》に丸《まる》くなつて寐《ね》てゐたり、或《あるひ》は運動《うんどう》の爲《ため》かのやうに、室《へや》を隅《すみ》から隅《すみ》へと歩《ある》いて見《み》たり、坐《すわ》つてゐる事《こと》は殆《ほとん》ど稀《まれ》で、始終《しゞゆう》興奮《こうふん》して、燥氣《いら/\》して、曖昧《あいまい》なある待《ま》つことで氣《き》が張《は》つてゐる樣子《やうす》。玄關《げんくわん》の方《はう》で微《かすか》な音《おと》でもするか、庭《には》で聲《こゑ》でも聞《き》こえるかすると、直《す》ぐに頭《あたま》を持上《もちあ》げて耳《みゝ》を欹《そばだ》てる。誰《だれ》か自分《じぶん》の所《ところ》に來《き》たのでは無《な》いか、自分《じぶん》を尋《たづ》ねてゐるのでは無《な》いかと思《おも》つて、顏《かほ》には謂《い》ふべからざる不安《ふあん》の色《いろ》が顯《あら》はれる。さなきだに彼《かれ》の憔悴《せうすゐ》した顏《かほ》は不幸《ふかう》なる内心《ないしん》の煩悶《はんもん》と、長日月《ちやうじつげつ》の恐怖《きようふ》とにて、苛責《さいな》まれ拔《ぬ》いた心《こゝろ》を、鏡《かゞみ》に寫《うつ》したやうに現《あら》はしてゐるのに。其廣《そのひろ》い骨張《ほねば》つた顏《かほ》の動《うご》きは、如何《いか》にも變《へん》で病的《びやうてき》で有《あ》つて。然《しか》し心《こゝろ》の苦痛《くつう》にて彼《かれ》の顏《かほ》に印《いん》せられた緻密《ちみつ》な徴候《ちようこう》は、一|見《けん》して智慧《ちゑ》ありさうな、教育《けういく》ありさうな風《ふう》に思《おも》はしめた。而《さう》して其眼《そのめ》には暖《あたゝか》な健全《けんぜん》な輝《かゞやき》がある、彼《かれ》はニキタを除《のぞ》くの外《ほか》は、誰《たれ》に對《たい》しても親切《しんせつ》で、同情《どうじやう》が有《あ》つて、謙遜《けんそん》であつた。同室《どうしつ》で誰《だれ》かゞ釦鈕《ぼたん》を落《おと》したとか匙《さじ》を落《おと》したとか云《い》ふ場合《ばあひ》には、彼《かれ》が先《ま》づ寐臺《ねだい》から起《おき》上《あが》つて、取《と》つて遣《や》る。毎朝《まいあさ》起《おき》ると同室《どうしつ》の者等《ものら》にお早《はや》うと云《い》ひ、晩《ばん》には又《また》お休息《やすみ》なさいと挨拶《あいさつ》もする。
彼《かれ》の發狂者《はつきやうしや》らしい所《ところ》は、始終《しゞゆう》氣《き》の張《は》つた樣子《やうす》と、變《へん》な眼付《めつき》とをするの外《ほか》に、時折《ときをり》、晩《ばん》になると、着《き》てゐる病院服《びやうゐんふく》の前《まへ》を神經的《しんけいてき》に掻合《かきあ》はせると思《おも》ふと、齒《は》の根《ね》も合《あ》はぬまでに全身《ぜんしん》を顫《ふる》はし、隅《すみ》から隅《すみ》へと急《いそ》いで歩《あゆ》み初《はじ》める、丁度《ちやうど》激《はげ》しい熱病《ねつびやう》にでも俄《にはか》に襲《おそ》はれたやう。と、施《やが》て立留《たちとゞま》つて室内《しつない》の人々《ひと/″\》を※[#「目+旬」、第3水準1−88−80]《みまは》して昂然《かうぜん》として今《いま》にも何《なに》か重大《ぢゆうだい》な事《こと》を云《い》はんとするやうな身構《みがま》へをす
前へ
次へ
全50ページ中3ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
瀬沼 夏葉 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング