開《あ》かせたりする時《とき》に、子供《こども》が泣叫《なきさけ》び、小《ちひ》さい手《て》を突張《つツぱ》つたりすると、彼《かれ》は其聲《そのこゑ》で耳《みゝ》がガンとして了《しま》つて、眼《め》が廻《まは》つて涙《なみだ》が滴《こぼ》れる。で、急《いそ》いで藥《くすり》の處方《しよはう》を云《い》つて、子供《こども》を早《はや》く連《つ》れて行《い》つて呉《く》れと手《て》を振《ふ》る。
 診察《しんさつ》の時《とき》、患者《くわんじや》の臆病《おくびやう》、譯《わけ》の解《わか》らぬこと、代診《だいしん》の傍《そば》にゐること、壁《かべ》に懸《かゝ》つてる畫像《ぐわざう》、二十|年《ねん》以上《いじやう》も相變《あひかは》らずに掛《か》けてゐる質問《しつもん》、是等《これら》は院長《ゐんちやう》をして少《すくな》からず退屈《たいくつ》せしめて、彼《かれ》は五六|人《にん》の患者《くわんじや》を診察《しんさつ》し終《をは》ると、ふいと診察所《しんさつじよ》から出《で》て行《い》つて了《しま》ふ。で、後《あと》の患者《くわんじや》は代診《だいしん》が彼《かれ》に代《かは》つて診察《しんさつ》するのであつた。
 院長《ゐんちやう》アンドレイ、エヒミチは疾《とう》から町《まち》の病家《びやうか》を有《も》たぬのを、却《かへ》つて可《い》い幸《さいはひ》に、誰《だれ》も自分《じぶん》の邪魔《じやま》をするものは無《な》いと云《い》ふ考《かんがへ》で、家《いへ》に歸《かへ》ると直《す》ぐ書齋《しよさい》に入《い》り、讀《よ》む書物《しよもつ》の澤山《たくさん》あるので、此《こ》の上《うへ》なき滿足《まんぞく》を以《もつ》て書見《しよけん》に耽《ふけ》るのである、彼《かれ》は月給《げつきふ》を受取《うけと》ると直《す》ぐ半分《はんぶん》は書物《しよもつ》を買《か》ふのに費《つひ》やす、其《そ》の六|間《ま》借《か》りてゐる室《へや》の三つには、書物《しよもつ》と古雜誌《ふるざつし》とで殆《ほとんど》埋《うづま》つてゐる。彼《かれ》が最《もつと》も好《この》む所《ところ》の書物《しよもつ》は、歴史《れきし》、哲學《てつがく》で、醫學上《いがくじやう》の書物《しよもつ》は、唯《たゞ》『醫者《ヴラーチ》』と云《い》ふ一|雜誌《ざつし》を取《と》つてゐるのに過《す》ぎぬ。讀書《どくしよ》爲初《しはじ》めると毎《いつ》も數時間《すうじかん》は續樣《つゞけさま》に讀《よ》むのであるが、少《すこ》しも其《そ》れで疲勞《つかれ》ぬ。彼《かれ》の書見《しよけん》は、イワン、デミトリチのやうに神經的《しんけいてき》に、迅速《じんそく》に讀《よ》むのではなく、徐《しづか》に眼《め》を通《とほ》して、氣《き》に入《い》つた所《ところ》、了解《れうかい》し得《え》ぬ所《ところ》は、留《とゞま》り/\しながら讀《よ》んで行《ゆ》く。書物《しよもつ》の側《そば》には毎《いつ》もウオツカの壜《びん》を置《お》いて、鹽漬《しほづけ》の胡瓜《きうり》や、林檎《りんご》が、デスクの羅紗《らしや》の布《きれ》の上《うへ》に置《お》いてある。半時間毎《はんじかんごと》位《くらゐ》に彼《かれ》は書物《しよもつ》から眼《め》を離《はな》さずに、ウオツカを一|杯《ぱい》注《つ》いでは呑乾《のみほ》し、而《さう》して矢張《やはり》見《み》ずに胡瓜《きうり》を手探《てさぐり》で食《く》ひ缺《か》ぐ。
 三|時《じ》になると彼《かれ》は徐《しづか》に厨房《くりや》の戸《と》に近《ちか》づいて咳拂《せきばら》ひをして云《い》ふ。
『ダリユシカ、晝食《ひるめし》でも遣《や》り度《た》いものだな。』
 不味《まづ》さうに取揃《とりそろ》へられた晝食《ひるめし》を爲《な》し終《を》へると、彼《かれ》は兩手《りやうて》を胸《むね》に組《く》んで考《かんが》へながら室内《しつない》を歩《ある》き初《はじ》める。其中《そのうち》に四|時《じ》が鳴《な》る。五|時《じ》が鳴《な》る、猶《なほ》彼《かれ》は考《かんが》へながら歩《ある》いてゐる。すると、時々《とき/″\》厨房《くりや》の戸《と》が開《あ》いて、ダリユシカの赤《あか》い寐惚顏《ねぼけがほ》[#ルビの「ねぼけがほ」は底本では「ねぼけがは」]が顯《あら》はれる。
『旦那樣《だんなさま》、もうビールを召上《めしあが》ります時分《じぶん》では御座《ござ》りませんか。』
と、彼女《かのじよ》は氣《き》を揉《も》んで問《と》ふ。
『いや未《ま》だ……もう少《すこ》し待《ま》たう……もう少《すこ》し……。』
と、彼《かれ》は云《い》ふ。
 晩《ばん》には毎《いつ》も郵便局長《いうびんきよくちやう》のミハイル、アウエリヤヌヰチが遊《あそ》びに來《く》る。ア
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