つな》がれるなど云《い》ふ事《こと》は良心《りやうしん》にさへ疚《やま》しい所《ところ》が無《な》いならば少《すこ》しも恐怖《おそる》るに足《た》らぬ事《こと》、這麼事《こんなこと》を恐《おそ》れるのは精神病《せいしんびやう》に相違《さうゐ》なき事《こと》、と、彼《かれ》も自《みづか》ら思《おも》ふて是《こゝ》に至《いた》らぬのでも無《な》いが、偖《さて》又《また》考《かんが》へれば考《かんが》ふる程《ほど》迷《まよ》つて、心中《しんちゆう》は愈々《いよ/\》苦悶《くもん》と、恐怖《きようふ》とに壓《あつ》しられる。で、彼《かれ》ももう思慮《かんが》へる事《こと》の無益《むえき》なのを悟《さと》り、全然《すつかり》失望《しつばう》と、恐怖《きようふ》との淵《ふち》に沈《しづ》んで了《しま》つたのである。
彼《かれ》は其《そ》れより獨居《どくきよ》して人《ひと》を避《さ》け初《はじ》めた。職務《しよくむ》を取《と》るのは前《まへ》にも不好《いや》であつたが、今《いま》は猶《なほ》一|層《そう》不好《いや》で堪《たま》らぬ、と云《い》ふのは、人《ひと》が何時《いつ》自分《じぶん》を欺《だま》して、隱《かくし》にでも密《そつ》と賄賂《わいろ》を突込《つきこ》みは爲《せ》ぬか、其《そ》れを訴《うつた》へられでも爲《せ》ぬか、或《あるひ》は公書《こうしよ》の如《ごと》きものに詐欺《さぎ》同樣《どうやう》の間違《まちがひ》でも爲《し》はせぬか、他人《たにん》の錢《ぜに》でも無《な》くしたり爲《し》はせぬか。と、無暗《むやみ》に恐《おそろし》くてならぬので。
春《はる》になつて雪《ゆき》も次第《しだい》に解《と》けた或日《あるひ》、墓場《はかば》の側《そば》の崖《がけ》の邊《あたり》に、腐爛《ふらん》した二つの死骸《しがい》が見付《みつ》かつた。其《そ》れは老婆《らうば》と、男《をとこ》の子《こ》とで、故殺《こさつ》の形跡《けいせき》さへ有《あ》るのであつた。町《まち》ではもう到《いた》る所《ところ》、此《こ》の死骸《しがい》のことゝ、下手人《げしゆにん》の噂計《うはさばか》り、イワン、デミトリチは自分《じぶん》が殺《ころ》したと思《おも》はれは爲《せ》ぬかと、又《また》しても氣《き》が氣《き》ではなく、通《とほり》を歩《ある》きながらも然《さう》思《おも》はれまいと微笑《びせう》しながら行《い》つたり、知人《しりびと》に遇《あ》ひでもすると、青《あを》くなり、赤《あか》くなりして、那麼《あんな》弱者共《よわいものども》を殺《ころ》すなどと、是程《これほど》憎《にく》むべき罪惡《ざいあく》は無《な》いなど、云《い》つてゐる。が、其《そ》れも此《こ》れも直《ぢき》に彼《かれ》を疲勞《つか》らして了《しま》ふ。彼《かれ》は乃《そこで》ふと[#「ふと」に傍点]思《おも》ひ着《つ》いた、自分《じぶん》の位置《ゐち》の安全《あんぜん》を計《はか》るには、女主人《をんなあるじ》の穴藏《あなぐら》に隱《かく》れてゐるのが上策《じやうさく》と。而《さう》して彼《かれ》は一|日中《にちゞゆう》、又《また》一晩中《ひとばんぢゆう》、穴藏《あなぐら》の中《なか》に立盡《たちつく》し、其翌日《そのよくじつ》も猶且《やはり》出《で》ぬ。で、身體《からだ》が甚《ひど》く凍《こゞ》えて了《しま》つたので、詮方《せんかた》なく、夕方《ゆふがた》になるのを待《ま》つて、こツそり[#「こツそり」に傍点]と自分《じぶん》の室《へや》には忍《しの》び出《で》て來《き》たものゝ、夜明《よあけ》まで身動《みうごき》もせず、室《へや》の眞中《まんなか》に立《た》つてゐた。すると明方《あけがた》、未《ま》だ日《ひ》の出《で》ぬ中《うち》、女主人《をんなあるじ》の方《はう》へ暖爐造《だんろつくり》の職人《しよくにん》が來《き》た。イワン、デミトリチは彼等《かれら》が厨房《くりや》の暖爐《だんろ》を直《なほ》しに來《き》たのであるのは知《し》つてゐたのであるが、急《きふ》に何《なん》だか然《さ》うでは無《な》いやうに思《おも》はれて來《き》て、是《これ》は屹度《きつと》警官《けいくわん》が故《わざ》と暖爐職人《だんろしよくにん》の風體《ふうてい》をして來《き》たのであらうと、心《こゝろ》は不覺《そゞろ》、氣《き》は動顛《どうてん》して、※[#「勹<夕」、第3水準1−14−76]卒《いきなり》、室《へや》を飛出《とびだ》したが、帽《ばう》も被《かぶ》らず、フロツクコートも着《き》ずに、恐怖《おそれ》に驅《か》られたまゝ、大通《おほどほり》を眞《ま》一|文字《もんじ》に走《はし》るのであつた。一|匹《ぴき》の犬《いぬ》は吠《ほ》えながら彼《かれ》を追《お》ふ。後《うしろ》の方《はう》では農夫
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