んじ》、同僚《どうれう》とは折合《をりあ》はず、生徒《せいと》とは親眤《なじ》まず、此《こゝ》をも亦《また》辭《じ》して了《しま》ふ。其中《そのうち》に母親《はゝおや》は死《し》ぬ。彼《かれ》は半年《はんとし》も無職《むしよく》で徘徊《うろ/\》して唯《たゞ》パンと、水《みづ》とで生命《いのち》を繋《つな》いでゐたのであるが、其後《そのご》裁判所《さいばんしよ》の警吏《けいり》となり、病《やまひ》を以《もつ》て後《のち》に此《こ》の職《しよく》を辭《じ》するまでは、此《こゝ》に務《つとめ》を取《と》つてゐたのであつた。
彼《かれ》は學生時代《がくせいじだい》の壯年《さうねん》の頃《ごろ》でも、生得《せいとく》餘《あま》り壯健《さうけん》な身體《からだ》では無《な》かつた。顏色《かほいろ》は蒼白《あをじろ》く、姿《すがた》は瘠《や》せて、初中終《しよつちゆう》風邪《かぜ》を引《ひ》き易《やす》い、少食《せうしよく》で落々《おち/\》眠《ねむ》られぬ質《たち》、一|杯《ぱい》の酒《さけ》にも眼《め》が廻《まは》り、往々《まゝ》ヒステリーが起《おこ》るのである。人《ひと》と交際《かうさい》する事《こと》は彼《かれ》は至《いた》つて好《この》んでゐたが、其神經質《そのしんけいしつ》な、刺激《しげき》され易《やす》い性質《せいしつ》なるが故《ゆゑ》に、自《みづか》ら務《つと》めて誰《たれ》とも交際《かうさい》せず、隨《したがつ》て亦《また》親友《しんいう》をも持《も》たぬ。町《まち》の人々《ひと/″\》の事《こと》は彼《かれ》は毎《いつ》も輕蔑《けいべつ》して、無教育《むけういく》の徒《と》、禽獸的生活《きんじうてきせいくわつ》と罵《のゝし》つて、テノルの高聲《たかごゑ》で燥立《いらだ》つてゐる。彼《かれ》が物《もの》を言《い》ふのは憤懣《ふんまん》の色《いろ》を以《もつ》てせざれば、欣喜《きんき》の色《いろ》を以《もつ》て、何事《なにごと》も熱心《ねつしん》に言《い》ふのである。で、其言《そのい》ふ所《ところ》は終《つひ》に一つ事《こと》に歸《き》して了《しま》ふ。町《まち》で生活《せいくわつ》するのは好《この》ましく無《な》い。社會《しやくわい》には高尚《かうしやう》なる興味《インテレース》が無《な》い。社會《しやくわい》は曖昧《あいまい》な、無意味《むいみ》な生活《せいくわつ》を爲《な》して居《ゐ》る。壓制《あつせい》、僞善《ぎぜん》、醜行《しうかう》を逞《たくまし》うして、以《も》つて是《これ》を紛《まぎ》らしてゐる。是《こゝ》に於《おい》てか奸物共《かんぶつども》は衣食《いしよく》に飽《あ》き、正義《せいぎ》の人《ひと》は衣食《いしよく》に窮《きう》する。廉直《れんちよく》なる方針《はうしん》を取《と》る地方《ちはう》の新聞紙《しんぶんし》、芝居《しばゐ》、學校《がくかう》、公會演説《こうくわいえんぜつ》、教育《けういく》ある人間《にんげん》の團結《だんけつ》、是等《これら》は皆《みな》必要《ひつえう》缺《か》ぐ可《べ》からざるものである。又《また》社會《しやくわい》自《みづか》ら悟《さと》つて驚《おどろ》くやうに爲《し》なければならぬとか抔《など》との事《こと》で。彼《かれ》は其眼中《そのがんちゆう》に社會《しやくわい》の人々《ひと/″\》を唯《たゞ》二|種《しゆ》に區別《くべつ》してゐる、義者《ぎしや》と、不義者《ふぎしや》と、而《さう》して婦人《ふじん》の事《こと》、戀愛《れんあい》の事《こと》に就《つ》いては、毎《いつ》も自《みづか》ら深《ふか》く感《かん》じ入《い》つて説《と》くのであるが、偖《さて》自身《じしん》には未《いま》だ一|度《ど》も戀愛《れんあい》てふものを味《あぢは》ふた事《こと》は無《な》いので。
彼《かれ》は恁《か》くも神經質《しんけいしつ》で、其議論《そのぎろん》は過激《くわげき》であつたが、町《まち》の人々《ひと/″\》は其《そ》れにも拘《かゝは》らず彼《かれ》を愛《あい》して、ワアニア、と愛嬌《あいけう》を以《もつ》て呼《よ》んでゐた。彼《かれ》が天性《てんせい》の柔《やさ》しいのと、人《ひと》に親切《しんせつ》なのと、禮儀《れいぎ》の有《あ》るのと、品行《ひんかう》の方正《はうせい》なのと、着古《きぶる》したフロツクコート、病人《びやうにん》らしい樣子《やうす》、家庭《かてい》の不遇《ふぐう》、是等《これら》は皆《みな》總《すべ》て人々《ひと/″\》に温《あたゝか》き同情《どうじやう》を引起《ひきおこ》さしめたのであつた。又《また》一|面《めん》には彼《かれ》は立派《りつぱ》な教育《けういく》を受《う》け、博學《はくがく》多識《たしき》で、何《な》んでも知《し》つてゐると町《まち》の人《
前へ
次へ
全50ページ中5ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
瀬沼 夏葉 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング