全然《まるで》春《はる》です。』
『今《いま》は何月《なんぐわつ》です、三|月《ぐわつ》でせうか?』
『左樣《さよう》、三|月《ぐわつ》も末《すゑ》です。』
『戸外《そと》は泥濘《ぬか》つて居《を》りませう。』
『那樣《そんな》でも有《あ》りません、庭《には》にはもう小徑《こみち》が出來《でき》てゐます。』
『今頃《いまごろ》は馬車《ばしや》にでも乘《の》つて、郊外《かうぐわい》へ行《い》つたらさぞ好《い》いでせう。』と、イワン、デミトリチは赤《あか》い眼《め》を擦《こす》りながら云《い》ふ。『而《さう》して其《そ》れから家《うち》の暖《あたゝか》い閑靜《かんせい》な書齋《しよさい》に歸《かへ》つて……名醫《めいゝ》に恃《かゝ》つて頭痛《づつう》の療治《れうぢ》でも爲《し》て貰《も》らつたら、久《ひさ》しい間《あひだ》私《わたくし》はもうこの人間《にんげん》らしい生活《せいくわつ》を爲《し》ないが、其《それ》にしても此處《こゝ》は實《じつ》に不好《いや》な所《ところ》だ。實《じつ》に堪《た》へられん不好《いや》な所《ところ》だ。』
 昨日《きのふ》の興奮《こうふん》の爲《ため》にか、彼《かれ》は疲《つか》れて脱然《ぐつたり》して、不好不好《いやいや》ながら言《い》つてゐる。彼《かれ》の指《ゆび》は顫《ふる》へてゐる。其顏《そのかほ》を見《み》ても頭《あたま》が酷《ひど》く痛《いた》んでゐると云《い》ふのが解《わか》る。
『暖《あたゝか》い閑靜《かんせい》な書齋《しよさい》と、此《こ》の病室《びやうしつ》との間《あひだ》に、何《なん》の差《さ》も無《な》いのです。』と、アンドレイ、エヒミチは云《い》ふた。『人間《にんげん》の安心《あんしん》と、滿足《まんぞく》とは身外《しんぐわい》に在《あ》るのではなく、自身《じしん》の中《うち》に在《あ》るのです。』
『奈何云《どうい》ふ譯《わけ》で。』
『通常《つうじやう》の人間《にんげん》は、可《い》い事《こと》も、惡《わる》い事《こと》も皆《みな》身外《しんぐわい》から求《もと》めます。即《すなは》ち馬車《ばしや》だとか、書齋《しよさい》だとかと、然《しか》し思想家《しさうか》は自身《じしん》に求《もと》めるのです。』
『貴方《あなた》は那樣哲學《そんなてつがく》は、暖《あたゝか》な杏《あんず》の花《はな》の香《にほひ》のする
前へ 次へ
全99ページ中54ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
瀬沼 夏葉 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング