いてある珍《めづ》らしい事《こと》、現今《げんこん》は恁云《かうい》ふ思想《しさう》の潮流《てうりう》が認《みと》められるとかと話《はなし》を進《すゝ》めたが、イワン、デミトリチは頗《すこぶ》る注意《ちゆうい》して聞《き》いてゐた。が忽《たちま》ち、何《なに》か恐《おそろ》しい事《こと》でも急《きふ》に思《おも》ひ出《だ》したかのやうに、彼《かれ》は頭《かしら》を抱《かゝ》へるなり、院長《ゐんちやう》の方《はう》へくるりと背《せ》を向《む》けて、寐臺《ねだい》の上《うへ》に横《よこ》になつた。
『奈何《どう》かしましたか?』と、院長《ゐんちやう》は問ふ。
『もう貴方《あなた》には一|言《ごん》だつて口《くち》は開《き》きません。』
 イワン、デミトリチは素氣《そつけ》なく云《い》ふ。『私《わたくし》に管《かま》はんで下《くだ》さい!』
『奈何《どう》したのです?』
『管《かま》はんで下《くだ》さいと云《い》つたら管《かま》はんで下《くだ》さい、チヨツ、誰《だれ》が那樣者《そんなもの》と口《くち》を開《き》くものか。』
 院長《ゐんちやう》は肩《かた》を縮《ちゞ》めて溜息《ためいき》をしながら出《で》て行《ゆ》く、而《さう》して玄關《げんくわん》の間《ま》を通《とほ》りながら、ニキタに向《むか》つて云《い》ふた。
『此處邊《こゝら》を少《すこ》し掃除《さうぢ》したいものだな、ニキタ。酷《ひど》い臭《にほひ》だ。』
『拜承《かしこ》まりました。』と、ニキタは答《こた》へる。
『何《なん》と面白《おもしろ》い人間《にんげん》だらう。』と、院長《ゐんちやう》は自分《じぶん》の室《へや》の方《はう》へ歸《かへ》りながら思《おも》ふた。『此《こゝ》へ來《き》てから何年振《なんねんぶり》かで、恁云《かうい》ふ共《とも》に語《かた》られる人間《にんげん》に初《はじ》めて出會《でつくわ》した。議論《ぎろん》も遣《や》る、興味《きようみ》を感《かん》ずべき事《こと》に、興味《きようみ》をも感《かん》じてゐる人間《にんげん》だ。』
 彼《かれ》は其後《そのゝち》讀書《どくしよ》を爲《な》す中《うち》にも、睡眠《ねむり》に就《つ》いてからも、イワン、デミトリチの事《こと》が頭《あたま》から去《さ》らず、翌朝《よくてう》眼《め》を覺《さま》しても、昨日《きのふ》の智慧《ちゑ》ある人間《にんげ
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