る。私は何が善だやら何が惡だやら、何が眞理だやら何が非眞理だやら、何が幸福だやら何が不幸だやら、何も知り分る能力のない私、隨つて善だの惡だの、眞理だの非眞理だの、幸福だの不幸だのと云ふことのある世界には、左へも右へも前へも後へもどちらへも身動き一寸することを得ぬ私、此私をして虚心平氣に此世界に生死することを得しむる能力の根本本體が、即ち私の信ずる如來である。私は此如來を信ぜずしては生きても居られず、死んで往くことも出來ぬ。私は此如來を信ぜずしては居られない。此如來は私が信ぜざるを得ざる所の如來である。
私の信念は大略此の如きものである。第一の點より云へば、如來は私に對する無限の慈悲である。第二の點より云へば、如來は私に對する無限の智慧である。第三の點より云へば、如來は私に對する無限の能力である。斯くして私の信念は、無限の慈悲と、無限の智慧と、無限の能力との實在を信ずるのである。無限の慈悲なるが故に、信念確定の其時より、如來は、私をして直に平穩と安樂とを得しめたまふ。私の信ずる如來は、來世を待たず、現世に於て、既に大なる幸福を私に與へたまふ。私は他の事によりて、多少の幸福を得られないことはない。けれども如何なる幸福も、此信念の幸福に勝るものはない。故に信念の幸福は、私の現世に於ける最大幸福である。此は私が毎日毎夜に實驗しつつある所の幸福である。來世の幸福のことは、私は、まだ實驗しないことであるから、此處に陳ぶることは出來ぬ。
次に如來は、無限の智慧であるが故に、常に私を照護して、邪智邪見の迷妄を脱せしめ給ふ。從來の慣習によりて、私は知らず識らず、研究だの考究だのと、色々無用の論議に陷り易い。時には、有限粗造の思辨によりて、無限大悲の實在を論定せんと企つることすら起る。然れども、信念の確立せる幸には、たとへ暫く此の如き迷妄に陷ることあるも、亦容易く其無謀なることを反省して、此の如き論議を抛擲することを得ることである。「知らざるを知らずとせよ、是れ知れるなり」とは、實に人智の絶頂である。然るに我等は容易に之に安住することが出來ぬ。私の如きは、實に、をこがましき意見を抱いたことがありました。然るに、信念の幸惠により、今は「愚癡の法然房」とか、「愚禿の親鸞」とか云ふ御言葉を、ありがたく喜ぶことが出來、又自分も眞に無智を以て甘んずることが出來ることである。私も以前には、有限である、不完全であると云ひながら、其有限不完全なる人智を以て、完全なる標準や、無限なる實在を研究せんとする迷妄を脱却し難いことであつた。私も以前には、眞理の標準や善惡の標準が分らなくなつては、天地も崩れ社會も治まらぬ樣に思うたることであるが、今は眞理の標準や善惡の標準が、人智で定まる筈がないと決着して居りまする。
扨又如來は無限の能力であるが故に、信念によりて、大なる能力を私に、賦與し給ふ。私等は通常、自分の思案や分別によりて、進退應對を決行することであるが、少し複雜なことになると、思案や分別が、容易に定まらぬ樣になる。それが爲に、段々研究とか考究とか云ふことをする樣になると、而して、前に云ふが如き標準とか實在とか云ふ樣なことを、求むることになりて見ると、行爲の決着が次第に六ヶ敷なり、何をどうすべきであるやら、殆ど困却の外はない樣なことになる。言葉を愼まねばならぬ、行を正しくせねばならぬ、法律を犯してはならぬ、道徳を壞りてはならぬ、禮儀に違うてはならぬ、作法を亂してはならぬ、自己に對する義務、他人に對する義務、家庭に於ける義務、社會に於ける義務、親に對する義務、君に對する義務、夫に對する義務、妻に對する義務、兄弟に對する義務、朋友に對する義務、善人に對する義務、惡人に對する義務、長者に對する義務、幼者に對する義務等、所謂人倫道徳の教より出づる所の義務のみにても、之を實行することは決して容易のことでない。若し眞面目に之を遂行せんとせば、終に「不可能」の歎に歸するより外なきことである。私は此「不可能」に衝き當りて、非常なる苦みを致しました。若し此の如き「不可能」のことの爲に、どこ迄も苦まねばならぬならば、私はとつくに自殺も遂げたでありませう。然るに、私は宗教により、此苦みを脱し、今に自殺の必要を感じませぬ、即ち、私は無限大悲の如來を信ずることによりて、今日の安樂と平穩とを得て居ることであります。
無限大悲の如來は、如何にして、私に此平安を得しめたまふか。外ではない、一切の責任を引き受けて下さるゝことによりて、私を救濟したまふことである。如何なる罪惡も、如來の前には毫も障りにはならぬことである。私は善惡邪正の何たるを辨ずるの必要はない。何事でも、私は只自分の氣の向ふ所、心の欲する所に順從《したが》うて之を行うて差支はない。其行が過失であらうと、罪惡であらうと、少しも懸
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