ど、はげしくした。そして、しばらく正義感がおさえられた。
反射的に、ねんどを親指と人さし指の腹ですりつぶしながら、春吉君は見ていた。石太郎はいつもと変わらず、てれた顔をつくえに近くゆすっている。いまに、おれじゃないと弁解するかと、春吉君がひそかにおそれながらも期待していたのに、その期待もうらぎられた。石太郎は、むちでこめかみをぐいとおされ、左へぐにゃりとよろけたが、依然《いぜん》てれたような表情で、沈黙しているばかりである。
春吉君はよぎなく、じぶんの罪を白状させられる機会は、ついにこなかった。これでさわぎはすんでしまった。一同は、ふたたび作業にとりかかった。
しかし春吉君だけは、事がまだ終末にいたっていない。気持ちにせおいきれぬほどの負担ができてしまった。春吉君には、こんな経験は、生まれてはじめてといってもよい。春吉君はいままで、修身の教科書の教えているとおりの、正しいすぐれた人間であると、じぶんのことを思っていた。
今、じぶんが沈黙を守って、石太郎にぬれぎぬをきせておくことは、正しいことではない。じぶんは、どうどうというべきである。いまからでもよい。さあ、いまから。そう口の中でいいながら、どうしても立ちあがる勇気が出ないのであった。
春吉君はくやしさのあまり、なきたいような気持ちになってきた。それをはぐらかすために、できあがっていただいじな茶わんを、ぐっとにぎりつぶしたのである。
*
まったくこれは、春吉君にとって、この世における最初の、じぶんで処理せねばならぬ煩悶《はんもん》であった。それは家へ帰ってからも、つぎの日学校にふたたびくるまでも、しつこく春吉君のあとをつけてきた。たいていのなやみは、おかあさんにぶちまければ、そして場合によっては少々なけば、解決つくのだが、こんどは、そういうわけにはいかない。
だいいち、どういっておかあさんに説明したらいいのか。雑誌がほしいとか、おとうさんのだいじな鉢《はち》をわってしまったとかならば、かんたんにじぶんのなやみを知ってもらえるが、これはそんなやさしいものではない。複雑さが、春吉君の表現をこえている。屁《へ》をひった話などしたら、まっさきにおかあさんはわらいだしてしまうだろう、とても、まじめにとってくれぬだろう。
春吉君は、ただじぶんの正しさというものに汚点がついたのが、しゃくだった。ちょうど、買ったばかりの白いシャツに、汚泥《おでい》の飛沫《ひまつ》をひっかけられたように。
石太郎にすまないという気持ちや、石太郎はぎせいに立ってえらいなという心は、ぜんぜん起こらなかった。石太郎が弁解しなかったのは、他人の罪をきて出ようというごとき高潔《こうけつ》な動機からでなく、かれが、歯がゆいほどのぐずだったからにすぎない。
また石太郎は、なんどむちでこづかれたとて、いっこう骨身《ほねみ》にこたえない。まるで日常|茶飯事《さはんじ》のようにこころえているのだから、いささかも、かれにすまないと思う必要はないわけである。
むしろ、石太郎みたいな屁の常習犯がいたために、こんななやみが残ったのだと思うと、かれがうらめしいのである。
しかし、ときが、春吉君の煩悶《はんもん》を解決してくれた。十日もすると、もうほとんど忘れてしまった。
だが春吉君は、それからのち、屁そうどうが教室で起こって、例のとおり石太郎がしかられるとき、けっしていぜんのようにかんたんに、それが石太郎の屁であると信じはしなかった。だれの屁かわからない。そしてみんなが、石だ、石だといっているときに、そっとあたりのものの顔を見まわし、あいつかもしれない、こいつかもしれないと思う。
うたがいだすと、のこらずのものがうたがえてくる。いや、おそらくは、だれにもいままでに、春吉君と同じような経験があったにそういないと考えられる。
そういうふうに、みんな狡猾《こうかつ》そうに見える顔をながめていると、なぜか春吉君は、それらの少年の顔が、その父親たちの狡猾な顔に見えてくる。おとなたちが、せちがらい世の中で、表面はすずしい顔をしながら、きたないことを平気でして生きていくのは、この少年たちが、ぬれぎぬをものいわぬ石太郎にきせて知らん顔しているのと、なにか、にかよっている。しぶんもそのひとりだと反省して、自己嫌悪《じこけんお》の情がわく。だが、それは強くない、心のどこかで、こういう種類のことが、人の生きていくためには、肯定《こうてい》されるのだと、春吉君には思えるのであった。
底本:「牛をつないだ椿の木」角川文庫、角川書店
1968(昭和43)年2月20日初版発行
1974(昭和49)年1月30日12版発行
入力:林 幸雄
校正:鈴木厚司
2001年9月4日公開
2001年10月15日修正
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