ぶやいたとしても、春吉君は恥辱《ちじょく》に思うのである。町の人がおどろくほどの健康色、つまり、日焼けしたはだの色というものは、町ふうではなく在郷《ざいごう》ふうだからだ。
ある人びとは、保護色性《ほごしょくせい》の動物のように、じき新しい環境《かんきょう》に同化されてしまう。で、藤井先生も、半年ばかりのあいだに、すっかり同化されてしまった。つまり都会気分がぬけて、いなかじみてしまった。洋服やシャツはあかじみ、ぶしょうひげはよくのびており、ことばなども、すっかり村のことばになってしまった。「なんだあ」とか、「とろくせえ」とか、「こいつがれ」などと、春吉君がそのことばあるがため、じぶんの故郷《こきょう》をきらっているような、げびた方言を、平気で使われるのである。春吉君が、藤井先生も村の人になったということをしみじみ感じたのは、麦のかられたじぶんのある日だった。
午後の二時間め、春吉君たちは、校庭のそれぞれの場所にじんどって、水彩の写生をしていた。小使室のまど下に腰をおろして、学校のげんかんと、空色にぬられた朝礼台と、そのむこうのけし[#「けし」の傍点]のさいているたんざく型の花だんと、ずうっと遠景にこちらをむいて立ってる二宮金次郎の、本を読みつつまき[#「まき」に傍点]をせおって歩いているみかげ石の像とをとりいれて、一心に彩筆《さいひつ》をふるっていた春吉君が、ふと顔をあげて南を見ると、学校の農場と運動場のさかいになっている土手《どて》の下に腹ばって、藤井先生が、なにか土手のあちら側にむかってあいずをしていられる。
いちはやく気づいたものがもうふたり、ばらばらとそちらへ走っていくので、春吉君も画板《がばん》をおいてかけつけると、土手の下に、水を通ずるため設けてある細い土管の中へ、竹ぎれをつっこんでいる先生が、落ちかかって鼻の先にとまっている眼鏡《めがね》ごしに春吉君を見て、
「おい、ぼけんと見とるじゃねえ、あっちいまわれ。こん中にいたち[#「いたち」に傍点]がはいっとるだぞ。今こっちからつっつくから、むこうで、屁《へ》えこき虫といっしょにかまえとって、つかめ。にがすじゃねえぞ」
と、つばをとばしながらおっしゃった。
むこう側へこしてみると、なるほど、屁えこき虫の石太郎が、このときばかりはじつにしんけんな顔つきで、そこのどろみぞの中にひざこぶしまではいって、土管の中へ、右手をうでのつけねまでさし入れている。うでをすっかり土管の中につっこんでいるので、しぜん頭が横むけに土手の草におしつけられ、なにか、土手の中のかすかな物音に、耳をすまして聞いているといった風情《ふぜい》である。
じき近くにあるあひる小屋にいる二わのあひるが、人のけはいでひもじさを思い出したのか、があがあとやかましく鳴きだした。
春吉君は、どろみぞの中へとびこんでいく気にはなれなかったし、石太郎が土管のあなを受け持っているからには、よけいな手だしはしないほうがいいので、ほかのものといっしょに見ていた。
「ええか、ええかあ、にがすなよおっ」
という藤井先生の声が、地べたをはってくる。石太郎はだまって、依然《いぜん》、土手の声に聞き入っていたが、やがて、土手についていたもう一方の手が、ぐっと草をつかんだかと思うと、土管の中から、右手を徐々《じょじょ》にぬきはじめた。
首ねっこを力いっぱいにぎりしめられていた大きないたち[#「いたち」に傍点]は、窒息《ちっそく》のためもうほとんど死んだようになっていて、土管の外へ出ると、だらりとえりまきを見るようにぶらさがったが、すこし石太郎が手をゆるめたのか、なにかかき落とそうとするように、四|肢《し》をもがいた。するとそのとき、どろみぞからあがっていた石太郎は、ちくしょうと口ばしって、目にもとまらぬ敏捷《びんしょう》さで、いたちを地べたへたたきつけた。
ぼたっと重い音がして、古いたち[#「いたち」に傍点]は、のびてしまった。春吉君は、いつも水藻《みずも》のような石太郎が、こんなにはっきり、ちくしょうっという日本語を使ったこともふしぎだったし、こんなにすばしこい動作《どうさ》ができるということも不可解な気がした。
それはともかく、そのとき春吉君は、藤井先生が、このかたいなかの、学問のできない、下劣《げれつ》で野卑《やひ》な生徒たちに、しごく適した先生になられたことを感じたのである。といって、べつだん失望したわけでもない。けっきょく、親しみをおぼえて、それがよかったのだ。
藤井先生は、石太郎ととらえたあのいたちを、ヘびつかみの甚太郎《じんたろう》に、二円三十銭で売った。その金で、小使いのおじさんと一ぱいやったという話を、二、三日して春吉君は、みんなからただおもしろく聞いた。先生はまだ独身で、小使室のとなりの宿直室で寝起《ねお》きしていられたのである。
教室でも先生が変化したことは、同じことだった。坂市君や、源五兵衛《げんごべえ》君や、照次郎《てるじろう》君などが、知らない文字をうのみにして読本《とくほん》を読んでいっても、最初のころのように、え、え、と、優美にとがめるようなことはされなくなった。年よりの、ぜんそくもちの石黒先生と同じように、知らんふりしてズボンのポケットに両手をつっこんで、つくえのあいだを散歩していられるのであった。
こういうぐあいに、すべての点で藤井先生はいなかの気ふうにならされ、のみならず、いなかふうをマスターするようにさえなったのだが、石太郎の、授業中にときどき音もなくはなつ屁《へ》にだけは、あくまで妥協できなかったのである。
情景はおおよそ、次第《しだい》がきまっていた。まず最初にそれを発見するのは、石太郎の前にいる学科のきらいな、さわぐことのすきな、顔ががま[#「がま」に傍点]ににている古手屋の遠助《とおすけ》である。かれは、先生のまじめなお話などいささかもわからないので、どんなに、クラス全体が一生けんめいに先生の話に傾聴《けいちょう》しているときでも「あっ、くさっ、あっ、あっ」といいだす。
すると、教室のその一|角《かく》から、「あっ、くさっ、あっ、くさっ」という声が、波紋《はもん》のようにひろがり、ざわめきだす。すると藤井先生は、あわててハンケチを胸のポケットから出す。(あまり倉卒《そうそつ》にとり出すので、頭髪《とうはつ》をすく小さいくしが、まつわってとび出したこともある)ハンケチで鼻をしっかりとおさえる。鼻声で、まどをあけろ、まどを、そっちも、こっちもと、下知《げち》なさる。
それから南のまどぎわへ歩いていって、外の空気をすうために、ややハンケチをおはなしになる。藤井先生のいつもきまった動作がおもしろいので、生徒らは、男子も女子も、ますます、くさいとさわぐ。すると、古手屋の遠助が、きょうは大根屁《だいこんぺ》だとか、きょうはいも屁だとか、きょうは、えんどう豆屁だとか、正確にかぎわけて、手がら顔にいうのである。
みんなは、遠助の鑑識眼《かんしきがん》を信用しているので、かれのいったとおりのことばを、また伝えはじめる。
「あ、大根屁だ。大根くせえ」
というふうに。ようやく喧騒《けんそう》が大きくなったころ、先生は、
「だれだっ」
と一かつされる。一同はぴたっと沈黙する。そして申しあわせたように、教室の後方に頭をめぐらす。みんなの視線の集まるところに、屁えこき虫の石太郎が、てれた顔をつくえに近くさげて、左右にすこしずつゆすっているのである。
その静寂《せいじゃく》の時間がやや長くつづくと、石だ、石だ、という声が、こんどはだれいうとなく、石太郎よりもっとも遠い一角より起こってくる。藤井先生は黒板のうらがわにかけてある竹のむちを持って、つかつかと石太郎のところへいき、いいかげんにしとけと、むちのえ[#「え」に傍点]で、石太郎のこめかみをこづかれる。そのときは先生も、石太郎と協力してとった古いたち[#「いたち」に傍点]の代で、一ぱいいけたことは、忘れていられるように見えるのである。
こういう情景は、もうなんどくり返されたかしれない。いつも判でおしたかのごとく同じ順序で。
秋もはじめのころの、学校の前の松の木山のうれに、たくさんのからすがむれて、そのやかましく鳴きたてる声が、勉強のじゃまになる、ある晴れた日の午後であった。
春吉君たちは、六時間めの手工《しゅこう》をしていた。その日の手工は、かわら屋の森一君がバケツ一ぱい持ってきたねんどで、思い思いの細工《さいく》をするのである。
春吉君は茶のみ茶わんをつくっていた。ほんとうの茶わんのように、土をうすく、しかも正しい円形につくることは、なかなかよういではない。すでになんべんも、できあがった茶わんが意にみたず、ひねりつぶし、またはじめからやりなおしていた。そしてついに、こんどこそはと思われる逸品《いっぴん》ができあがりつつあった。春吉君は、細心の注意をはらって、竹べらをぬらしては、茶わんのはらの凹凸《おうとつ》をならしていった。
すっかり茶わんに心をうばわれ、ほかの、いっさいのことを忘れていたが、ふとわれに返った春吉君は、「しまった」と思った。朝からすこし腹ぐあいがわるく、なにか重いものが下腹いったいにつまっている感じで、ときどき、ぷつぷつと豆のにえるような音もしていたので、ゆだんすると屁《へ》をするぞと、心をいましめていたのだが、ついに、しごとに熱中していて、今その屁を音もたてずにしてしまったのである。おかげで腹がかるくなったが、腹のかるくなるほどの屁というものは、はげしい臭気をともなっているはずだと、春吉君は思った。
うまくだれも気づかずにいてくれればよいがと、春吉君はひそかに願った。ならびの席にいる源五兵衛《げんごべえ》君は、鼻じるをすすりながら、ぶかっこうに大きな動物――たぶん、かめだろうと思われるが、ともかく四足動物の四本めの足をくっつけようと努力している。うしろの照次郎君も、与之助《よのすけ》君も、それぞれの制作に余念がない。
すこし時間がたった。春吉君はたすかったと思った。と、そのせつな、古手屋の遠助が、あ、くせ、と、第一声をはなった。すぐに、くせえ、くせえ、という声が、四方に伝わった。春吉君は、はずかしさで顔がほてってきた。
いつもと同じさわぎがはじまった。屁えこき虫の石太郎が屁をはなったときと、寸分《すんぶん》ちがわぬことが。
春吉君は、どうしていいのかわからない。もう、なりゆきにまかすばかりだ。
やがて古手屋の遠助が、きょうは大根菜屁《だいこんなっぺ》だといった。なんという鋭敏《えいびん》な嗅覚《きゅうかく》だろう。たしかに春吉君は、けさ大根菜のはいったみそしるでたべてきたのである。
やがてさわぎが大きくなりだしたころ、藤井先生が例によって、
「だれだっ」
とどなられた。春吉君は意味もなくねんどをひねりながら、いきをのんて、面《おもて》をふせた。みんなの視線が、ちょうどいつも石太郎の上に蝟集《いしゅう》するように、きょうは、じぶんにそそがれているのだと思いながら。
いまにどこからか、春吉君だという声が起こってくるにそういない、と思った。そういうふうにすっかり観念《かんねん》していたので、石だ、石だ、というあやまった声があがったときには、じぶんの頭上に落ちてくるはずのげんこつが、わきにそれたように、ほっとしたきみょうな感じになった。
顔をあげてみると、意外にも、みんなの視線は、春吉君に集中されておらず、やはり石太郎の方にむいているのだ。
藤井先生が、黒板のうらにかかっているむちをとって、つかつかと石太郎の前に歩いていかれる。春吉君の心の底から、正義感がむくっと起きてきた。じぶんだといってしまおうか、しかし、だれひとり、じぶんをうたがってはいないのである。ここで白状するのは、なんともはずかしい。先生が石太郎の席に達するまでのみじかい時間を、春吉君の中で正義感と羞恥心《しゅうちしん》とが、めまぐるしい闘争をした。それが春吉君の動悸《どうき》を、鼓膜《こまく》にドキッドキッとひびくほ
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