街《まち》のまん中で、よいからさめるかもしれません。それともこの半島のはしの、海にのぞんだ崖《がけ》っぷちの上で目がさめ、びっくりするようなことになるかもしれません。なにしろ若い牛は元気がいいので、ひと晩のうちに十里くらいは歩くでしょうから。
 「和太郎さんはいい牛を持っている」とみんなはいっていました。「まるで、気がよくきいて親切《しんせつ》なおかみさんのような」といっていました。

       二

 ところで、和太郎さんのおかみさんのことです。
 和太郎さんは、おかみさんについて悲しい思い出がありました。
 和太郎さんも、若かったとき、ひとなみにお嫁《よめ》さんをもらいました。
 いままで、年とった目っかちのおかあさんとふたりきりの、さびしい生活をしていましたので、若いお嫁さんがくると、和太郎さんの家は、毎日がお祭のように、明るくたのしくなりました。
 美しくて、まめまめしく働くお嫁さんなので、和太郎さんも目っかちのおかあさんも、喜んでいました。
 けれど、和太郎さんは、ある日、おかしなことに目をつけました。それは、ご飯を家じゅう三人でたべるとき、お嫁さんがいつも、顔を横にむけて壁《かべ》の方を見ていることでありました。
 和太郎さんは、十日間それをだまって見ていました。お嫁さんはあいかわらず、壁の方に顔をむけてご飯をたべるのでありました。
 とうとう和太郎さんは、がまんができなくなって、ききました。
 「おまえは、首をそういうふうに、ねじむけておかないと、ご飯がのどを通っていかないのかや。それとも、うちの壁に、なにかかわったことでもあるのかや」
 するとお嫁さんは、なにもこたえないで、箸《はし》を持った手をひざの上においたまま、うつむいてしまいました。
 あとでふたりきりになったとき、お嫁さんは小さな声で和太郎さんにつげました。
 「わたしは、おかあさんのつぶれたほうの目を見ると、気持ちがわるくなるのです。つぶれて、赤い肉が見えているでしょう。あれを見てはご飯がのどを通らないので、横をむいているのです」
 「そうか、だがおかあさんは、遊んでいて目をつぶしたのじゃないぞや。田の草をとっていて、稲の葉先でついたのがもとで、あの目をつぶしたのだぞや」
と、和太郎さんはいいました。
 「わたしは、どういうもんか、あのつぶれた目の赤い肉の色を見ると、気持ちがわるくなるのです」
と、お嫁さんはまたいうのでした。
 「だが、おかあさんは、稲でついて目をつぶしたのだぞや。そんなにして、わしをそだててくれたのだぞや」
 「でも、わたしは、あのつぶれた目を見ていては、ご飯がのどを通りません」
 和太郎さんはおかあさんとふたりきりになったとき、おかあさんに話しました。
 「おチヨは、おかあさんのつぶれたほうの目を見ていると、気持ちがわるくて、ご飯がのどを通らんそうです」
 それを聞くと、年とったおかあさんは、豆をたたくのをやめて、しばらく悲しげな顔をしていました。そしていいました。
 「そりゃ、もっともじゃ。こんなかたわを見ていちゃ、若いものには気持ちがよくあるまい。わしはまえから、嫁ごがきたら、おまえたちのじゃまにならぬように、どこかへ奉公に出ようと思っていたのだよ。それじゃ、あしたから桝半《ますはん》さんのところへ奉公にいこう。あそこじゃ飯たきばあさんがほしいそうだから」
 つぎの日、年とったおかあさんは、すこしの荷物をふろしき包みにして、日ざかりにこうもりがさをさして家を出ていきました。門先《かどさき》のもえるようにさきさかっているつつじのあいだを通って、いってしまいました。
 畑の垣根《かきね》をなおしながら、和太郎さんは、おかあさんを見送っていました。おかあさんが見えなくなると、つつじの赤が、和太郎さんの目にしみました。
 和太郎さんはなけてきました。こんな年とったおかあさんを、今また奉公させに、よその家にやってよいものでしょうか。せっせと働いて、苦労をしつづけて、ひとり息子《むすこ》の和太郎さんをそだててくれたおかあさんを。
 和太郎さんは縄《なわ》きれを持ったまま、とんでいって、おかあさんの手をつかむと、だまってぐんぐん家へひっぱってきました。
 「おい、おい、おチヨ」
と、和太郎さんはよびました。
 お嫁さんは台所から、手をふきながら、出てきました。
 「おまえは、近いうちにさと[#「さと」に傍点]へいっぺん帰りたい用があるといっていたな」
 「はい」
 「それじゃ、きょう、いまからいきなさい」
 お嫁さんは、じぶんの生まれた家に久しぶりに帰ることができるので、うれしくてたまりませんでした。さっそくよい着物にかえました。
 「さとには、たけのこ[#「たけのこ」に傍点]がなかったな。たけのこを持っていきなさい。ふきもたくさん
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