って、声が出ません。
 男は、井戸の口からつりさげたなわのはしで、少佐の胴体《どうたい》をしばっておいて、じぶんがさきにそのなわにつかまってのぼり、それから、なわをたぐって、少佐を井戸の外へひきあげました。少佐は、ぎらぎらした昼の天地が目にはいるといっしょに、ああ、たすかったと思いましたが、そのまま、また、気をうしなってしまいました。

  二

 少佐がかつぎこまれたのは、ほったて小屋のようにみすぼらしい、中国人の百しょうの家で、張魚凱《ちょうぎょがい》というおやじさんと、張紅倫《ちょうこうりん》というむすことふたりきりの、まずしいくらしでした。
 あい色の中国服をきた十三、四の少年の紅倫は、少佐のまくらもとにすわって、看護してくれました。紅倫は、大きなどんぶりに、きれいな水をいっぱいくんでもってきて、いいました。
 「わたしが、あの畑の道を通りかかると、人のうめき声がきこえました。おかしいなと思ってあたりをさがしまわっていたら、井戸のそこにあなたがたおれていたので、走ってかえって、おとうさんにいったんです。それから、おとうさんとわたしとで、なわをもっていって、ひきあげたのです」
 紅倫《こうりん》はうれしそうに目をかがやかしながら話しました。少佐はどんぶりの水をごくごくのんでは、うむうむと、いちいち感謝をこめてうなずきました。
 それから、紅倫は、日本のことをいろいろたずねました。少佐が、内地に待っている、紅倫とおない年くらいのじぶんの子どものことを話してやると、紅倫はたいへんよろこびました。わたしも日本へいってみたい、そして、あなたのお子さんとお友だちになりたいと、いいました。少佐はこんな話をするたびに、日本のことを思いうかべては、小さなまどから、うらの畑のむこうを見つめました。外では、遠くで、ドドン、ドドンと、砲声がひっきりなしにきこえました。
 そのまま四、五日たった、ある夕がたのことでした。もう戦いもすんだのか、砲声もぱったりやみました。まどから見える空がまっかにやけて、へんにさびしいながめでした。いちんち畑ではたらいていた張魚凱《ちょうぎょがい》が、かえってきました。そして少佐のまくらもとにそそくさとすわりこんで、
 「こまったことになりました。村のやつらが、あなたをロシア兵に売ろうといいます。こんばん、みんなで、あなたをつかまえにくるらしいです。早くここをにげてください。まだ動くにはごむりでしょうが、一刻もぐずぐずしてはいられません。早くしてください。早く」
と、せきたてます。
 少佐は、もうどうやら歩けそうなので、これまでの礼をあつくのべ、てばやく服装をととのえて、紅倫《こうりん》の家を出ました。畑道に出て、ふりかえってみると、紅倫がせど[#「せど」に傍点]口から顔を出して、さびしそうに少佐のほうを見つめていました。少佐はまた、ひきかえしていって、大きな懐中時計《かいちゅうどけい》をはずして、紅倫の手ににぎらせました。
 だんだん暗くなっていく畑の上を、少佐は、身をかがめて、奉天をめあてに、野ねずみのようにかけていきました。

  三

 戦争がおわって、少佐も内地へかえりました。その後、少佐は退役して、ある都会の会社につとめました。少佐は、たびたび張《ちょう》親子を思い出して、人びとにその話をしました。張親子へはなんべんも手紙を送りました。けれども、先方ではそれが読めなかったのか、一どもへんじをくれませんでした。
 戦争がすんでから、十年もたちました。少佐は、その会社の、かなり上役《うわやく》になり、むすこさんもりっぱな青年になりました。紅倫《こうりん》もきっと、たくましいわかものになったことだろうと、少佐はよくいいいいしました。
 ある日の午後、会社の事務室へ、年わかい中国人がやってきました。青い服に、麻《あさ》のあみぐつをはいて、うでにバスケットをさげていました。
 「こんにちは。万年筆いかが」
と、バスケットをあけて、受付の男の前につきだしました。
 「いらんよ」
と受付の男は、うるさそうにはねつけました。
 「墨《すみ》いかが」
 「墨も筆もいらん。たくさんあるんだ」
と、そのとき、おくのほうから青木少佐が出てきました。
 「おい、万年筆を買ってやろう」
と、少佐はいいました。
 「万年筆やすい」
 あたりで仕事をしていた人も、少佐が万年筆を買うといいだしたので、ふたりのまわりによりたかってきました。いろんな万年筆を少佐が手にとって見ているあいだ、中国人は、少佐の顔をじっと見まもっていました。
 「これを一本もらうよ。いくらだい」
 「一円と二十銭」
 少佐は金入れから、銀貨を出してわたしました。中国人はバスケットの始末をして、ていねいにおじぎをして、出ていこうとしました。そのとき、中国人は、ポケッ
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