女の人が引っ込んでいって、低声《こごえ》で何か囁《ささや》きあっているのが、心臓の高鳴りはじめた木之助の神経を刺戟《しげき》した。やがてまた足音がして、こんどは頭をぴかぴかの時分《ときわ》けにし、黒い太い縁《ふち》の眼鏡《めがね》をかけた若主人が現われた。
「ああ、また来ましたね」と木之助を見て若主人はいった。「君、知らなかったのかね、親父《おやじ》は昨年の夏なくなったんだよ」
「へっ」といって木之助はしばらく口がふさがらなかった。立っている自分に、寂しさが足元から上って来るのを、しみじみ感じながら。
「そうでごぜえますか、とうとうなくなられましたか」。やっと気を取り直して木之助はそれだけいった。
 木之助はすごすごと踵《くびす》をかえした。閾《しきい》に躓《つまず》いて、も少しで見苦しく這《は》いつくばうところだった。右足の親指を痛めただけで胡弓をぶち折らなかったのはまだしも仕合わせというべきだった。
 門を出ると、一人の風呂敷包みを持った五十|位《くらい》の女が、雪駄《せった》の歯につまった雪を、門柱の土台石にぶつけて、はずしていた。木之助を見ると女の人は、おや、と懐《なつか》し
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