も以前のように胡弓のすすりなくような声は聞えず、ぱんぱんと寒い空気の中を村の外までひびく鼓の音も聞えなかった。これだけ世の中が開けて来たのだと人々はいう。人間が悧口《りこう》になったので、胡弓や鼓などの、間《ま》のびのした馬鹿らしい歌には耳を藉《か》さなくなったのだと人々はいう。もしそうなら、世の中が開けるということはどういうつまらぬ[#「つまらぬ」に傍点]ことだろう、と木之助は思ったのである。
 木之助の家では八十八歳まで生きた木之助の父親が、冬中ねていたが、恰度《ちょうど》旧の正月の朝、朝日がうらうらとお宮の森の一番高い檜《ひのき》の梢《こずえ》を照《てら》し出すころ、恰度天から与えられた生命を終って枯れる木のように、静かに死んでいった。そのために、数十年来一度も欠かさなかった胡弓の門附けを、この正月ばかりはやめなければならなかった。その翌年は、これはまた木之助自身が感冒を患《わずら》ってうごくことが出来なかった。味噌屋の御主人が、もう俺《おれ》が来るずらと思って待ってござるじゃろうに、と仰向《あおむけ》に寝ている木之助は、枕元《まくらもと》に坐《すわ》って看病している大きい娘にそ
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