立ちまぎれに、そいじゃ売ろうといってしまった。木之助は外に出ると何だかむしょうに腹が立ったが、その下にうつろな寂《さび》しい穴がぽかんとあいていた。
 少しゆくと鉄柵《てっさく》でかこまれた大きい小学校があって、その前に学用品を売る店が道の方を向いていた。末っ子の由太のためにたのまれた王様クレヨンを買った。小僧がそれを包み紙で包むのを待っている間に、木之助の心は後悔の念に噛《か》まれはじめた。胡弓を手ばなした瞬間、心の一隅《いちぐう》に「しまった」という声が起った。それが、今は段々大きくなって来た。
 クレヨンの包みを受けとると木之助は慌《あわ》てて、ゴムの長靴《ながぐつ》を鳴らしながら、さっきの古物屋の方へひっかえしていった。あいつを手離してなるものか、あいつは三十年の間私につれそうて来た!
 もう胡弓が古帽子や煙草入れなどと一緒に、道からよく見えるところに吊《つる》してあるのが、木之助の眼に入った。まだあってよかったと思った。長い間|逢《あ》わなかった親しい者にひょいと出逢ったように懐《なつか》しい感じがした。
 木之助は店にはいって行って、ちょっと躊躇《ためら》いながら、いった。
「ちょっと、すまないが、さっきの胡弓は返してくれんかな。ちょっと、そのう、都合の悪いことが出来たもんで」
 青くむくんだ女主人は、きつい眼をして木之助の顔を穴のあくほど見た。そこで木之助は財布《さいふ》から三十銭を出して火鉢《ひばち》の横にならべた。
「まことに勝手なこといってすまんが、あの胡弓は三十年も使って来たもんで、俺《おれ》のかかあより古くから俺につれそっているんで」
 女主人の心を和《やわら》げようと思って木之助はそんなことをいった。すると女主人は、
「あんたのかかあ[#「かかあ」に傍点]がどうしただか、そんなこたあ知らんが、家《うち》あ商売してるだね。遊んでいるじゃねえよ」といって、帳面や算盤《そろばん》の乗っている机に頤杖《あごづえ》をついた。そしてまたいった。「買いとったものを、おいそれと返すわけにゃいかんよ」
 これはえらい[#「えらい」に傍点]女だなと木之助は思いながら「それじゃ、売ってくれや、いくらでも出すに」といった。
 女主人はまたしばらく木之助の顔を見ていたが、
「売ってくれというなら売らんことはないよ、こっちは買って売るのが商売だあね」とちょっとおとなし
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