八

「お前さん、しばらく見えなかっただね、一昨年《おととし》の正月も昨年の正月もなくなられた大旦那《おおだんな》が、あれが来ないがどうしたろうと言っておらしたに」
「ああ、去年は大病《おおや》みをやり、一昨年は恰度《ちょうど》旧正月の朝親父が死んだもので、どうしても来られなかっただ。御隠居も夏死なしたそうだな。俺《おれ》あ今きいてびっくりしたところだよ」と木之助はいった。
「そうかね、お前さん知らなかっただね」と年とった女中はいって、それから優しく咎《とが》めるような口調で言葉をついだ。「去年の正月はほんとに大旦那はお前さんのことを言っておらしただに。どうしよっただろう、もう門附けなんかしてもつまらんと思って止《や》めよっただろうか、病気でもしていやがるか、ってそりゃ気にして見えただよ」
 木之助は熱いものがこみあげて来るような気がした。「ほうかな、ほうかな」といってきいていた。
 年とった女中はそれから、もう一ぺんひっ返して、大旦那の御仏前《ごぶつぜん》で供養《くよう》に胡弓を弾くことをすすめた。「そいでも、若い御主人が嫌《きら》うだろ」と木之助がしりごむと、女中は、「なにが。わたしがいるから大丈夫だよ」と言って木之助をひっぱっていった。
 女中は木之助を勝手口の方から案内し、ちょっとそこに待たせておいて奥へ姿を消したが、直《じき》また出て来て、さあおあがりな、と言った。木之助は長靴をぬいで女中のあとに従って仏間《ぶつま》にいった。仏壇は大きい立派なもので、点《とも》された蝋燭《ろうそく》の光に、よく磨《みが》かれた仏具や仏像が金色にぴかぴかと煌《きらめ》いていた。木之助はその前に冷えた膝《ひざ》を揃《そろ》えて坐《すわ》ると、焚《た》かれた香《こう》がしめっぽく匂《にお》った。南無阿弥陀仏《なむあみだぶつ》と唱えて、心から頭をさげた。深い仏壇の奥の方から大旦那がこちらを見ているような気がしたのである。
「そいじゃ、何か一つ、弾いてあげておくれやな」と背後に坐っていた女中がいった。木之助は今までに仏壇に向《むか》って胡弓を弾いたことはなかったので、変なそぐわない気がした。だが思い切って弾き出して見ると、じきそんな気持ちは消えた。いつ弾く時でもそうであるように、木之助はもう胡弓に夢中になってしまった。木之助の前にあるのはもう仏壇というような物ではなかった。耳
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