助の門附けを辞《ことわ》った。帽子屋では木之助が硝子戸《ガラスど》を三寸ばかり明けたとき、店の火鉢《ひばち》に顎《あご》をのせるようにして坐《すわ》っていた年寄りの主人が痩《や》せた大きな手を横に振ったので木之助は三寸あけただけでまた硝子戸をしめねばならなかった。また一昨々年まで必ず木之助の門附けを辞らなかった或《あ》るしもた[#「しもた」に傍点]家《や》には、木之助があけようとして手をかけた入口の格子《こうし》硝子に「諸芸人、物貰《ものもら》い、押売り、強請《ゆすり》、一切おことわり、警察電話一五〇番」と書いた判紙《はんし》が貼《は》ってあった。また或る店屋では、木之助が中にはいって、ちょっと胡弓を弾いた瞬間、声の大きい旦那《だんな》が、今日はごめんだ、と怒鳴りつけるような声で言ったので、木之助はびくっとして手をとめた。胡弓の音《おと》もびっくりしたようにとまってしまった。
 もうこれ以上他を廻るのは無駄《むだ》であると木之助は思った。そこで最後のたのしみにとっておいた味噌屋の方へ足を向けた。
 門の前に立った時木之助はおやと思った。そこには見馴《みな》れた古い「味噌《みそ》溜《たまり》」の板看板はなくなり、代りに、まだ新しい杉板に「※[#「仝」の「工」に代えて「吉」、屋号を示す記号、59−12]味噌|醤油《しょうゆ》製造販売店」と書いたのが掲げられてあった。それだけのことで、木之助にはいつもと様子が変ったような、うとましい気がした。門をくぐってゆくと、あの大きい天水桶《てんすいおけ》はなくなっていた。そして天水桶のあったあたりには、木之助の嫌《きら》いな、オート三輪がとめてあった。
「ごめんやす」とほっぽこ[#「ほっぽこ」に傍点]頭巾をぬいで木之助は土間《どま》にはいった。
 奥の方で、誰か来たよといっているのが静けさの中をつつぬけて来た。やがて誰かが立ってこちらへ来る気配がした。木之助はちょっと身繕《みづくろ》いした。だが衝立《ついたて》の蔭《かげ》から、始めて見る若い美しい女の人が出て来て、そこに片手をついてこごんだときはまた面くらった。
「あのう」といって木之助は黙った。言葉がつづかなかった。それから一つ咳《せき》をして「ご隠居は今日はお留守《るす》でごぜえますか。毎年ごひいきに預っています胡弓弾きが参りましたと仰有《おっしゃ》って下せえまし」といった。

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