解けて歩くに難儀だよ」と女房がいった。「そげに難儀して行ったところで、今時《いまどき》、胡弓など本気になって聴いてくれるものはありゃしないだよ」
木之助は、女房のいう通りだと悲しく思った。だが、味噌屋の旦那《だんな》のことを頭にうかべて、
「まだ耳のある人はあるだ。世間は広いだよ」
と答えた。娘のおツタは待針《まちばり》でついた指の背を口にふくみながら、勝つあんもやめた、力さんもやめたと、門附けをやめてしまった人々の名をあげてしまいに「いつまででも芸だの胡弓だのいってるのはお父《とっ》つあん一人だよ。人が馬鹿だというよ」といった。
「こけ[#「こけ」に傍点]でもこけずき[#「こけずき」に傍点]でもええだ。聴いてくれる人が一人でもこの娑婆《しゃば》にあるうちは、俺《おれ》あ胡弓はやめられんよ」
しばらくみんな黙っていた。竹藪でどさっと雪が落ちた。
「お父つあんも気の毒な人だよ」と女房がしんみりいった。
「もうちっと早くうまれて来るとよかっただ、お父つあん。そうすりゃ世間の人はみんな聴いてくれただよ。今じゃラジオちゅうもんがあるから駄目《だめ》さ」
木之助は話しているうちに段々あきらめていった。本当に女房や娘のいう通りだろう。世間が聴いてくれなくなった胡弓を弾きに雪の道を町まで行くなどはこけ[#「こけ」に傍点]の骨頂《こっちょう》だろう。それでまた感冒にでもなって、女房たちにこの上の苦労をかけることになったらどんなにつまらないだろう。眠りにつく前、木之助はもう、明日《あした》町へゆくことをすっかり諦《あきら》めていた。
夜《よ》が明けて旧正月がやって来たが、木之助にとってはそれは奇妙な正月だった。三十年来正月といえば胡弓を抱《かか》えて町へ行った。去年と一昨年《おととし》はいかなかったが、父親の死と、木之助の病気というものが余儀なくさせたのである。ところがこんどはこれという理由もないのだ。第一|今日《きょう》一日何をしたらいいのだろう。
天気は大層よかった。雪の上にかっと陽《ひ》がさして眩《まぶ》しかった。電線にとまった雀《すずめ》が、その細い線の上に積っていた雪を落すと、雪はきらきら光る粉《こ》になって下の雪に落ちた。外の明るい反射が家の中までさしていた。木之助は胡弓を見ていた。それから柱時計《はしらどけい》を見た。午前九時十五分前。遠くからカンカンカンと鐘
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