う兵太郎君は、ていこうしなかった。ふたりは、しいんとなってしまった。二町ばかりはなれた道を通るらしい車の輪の音が、カラカラときこえてきた。それが、はじめて聞いたこの世の物音のように感じられた。その音は、もう夕方になったということを久助君に知らせた。
 久助君は、ふいとさびしくなった。くるいすぎたあとに、いつも感じるさびしさである。もうやめようと思った。だがもし、これで立ちあがって兵太郎君がベソをかいていたら、どんなにやりきれぬだろうということを、久助君は痛切《つうせつ》に感じた。おかしいことに、とっくみあいのあいだじゅう、久助君は、一ぺんも相手の顔を見なかった。今こうして相手をおさえていながらも、じぶんの顔は相手の胸の横にすりつけて下をむいているので、やはり、相手の顔は見ていないのである。
 兵太郎君は身動きもせず、じっとしている。かなりはやい呼吸が、久助君の顔につたわってくる。兵太郎君は、いったいなにを考えているのだろう。
 久助君はちょっと手をゆるめてみた。だが相手はもう、その虚《きょ》に乗じてはこない。久助君は手をはなしてしまった。それでも相手は立ちなおろうとしない。そこで久助君は、ついに立ちあがった。すると、兵太郎君もむっくりと起きあがった。
 兵太郎君は久助君のすぐ前に立つと、なにもいわないで、地平線のあたりをややしばらくながめていた。なんともいえないさびしそうなまなざしで。
 久助君はびっくりした。久助君の前に立っているのは、兵太郎君ではない、見たこともない、さびしい顔つきの少年である。
 なんということか、兵太郎君だと思いこんで、こんな知らない少年と、じぶんは半日くるっていたのである。
 久助君は世界がうら返しになったように感じた。そして、ぼけんとしていた。
 いったい、これはだれだろう。じぶんが半日くるっていたこの見知らぬ少年は……。
 なんだ、やはり兵太郎君じゃないか。やっぱり相手は、日ごろのなかまの兵太郎君だった。そうわかって、久助君はほっとした。
 あたりはもう、うす暗くなっていた。着物から草のごみをはらい、おびをしめなおすと、てれくさい気持ちで、久助君は兵太郎君にわかれた。しっけ、ともいわないで。
 だがそれからの久助君は、こう思うようになった。――わたしがよく知っている人間でも、ときには、まるで知らない人間になってしまうことがあるものだと。
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