」に傍点]をもらしながら、すこししせいをくずすが、またすぐ、熱心に先生の方をながめるのであった。それだけのことで、久助君には、太郎左衛門が、じぶんたちのように道のほこりや草の中でそだってきたものではないことがわかり、太郎左衛門をすきにもなれば、なにかもの悲しい思いでもあったのである。
 あるとき久助君は、いつものようにじぶんの席から、その美しい少年をながめていた。それは、ひとりの美しい少年であった。この美しい少年は、いったいなんという名だろうと、久助君は思った。そしてすぐ、なァんだ、太郎左衛門じゃないかと、口の中でいった。
 ふいと久助君は、まえに、江川太郎左衛門《えがわたろうざえもん》というえらい人物の伝記を、ある雑誌で読んだことを思い出した。よくはおぼえていないが、江戸時代の砲術家《ほうじゅつか》で、伊豆《いず》の韮山《にらやま》に反射炉《はんしゃろ》というものをきずいて、そこで、そのころとしてはめずらしい大砲を鋳造《ちゅうぞう》したという人である。そして、れんがを積みあげてつくったらしい反射炉の図と、びっくりした人のように目玉の大きい、ちょんまげすがたの江川太郎左衛門の肖像《しょうぞう》が、久助君の頭にうかんだ。
 この少年太郎左衛門は、あの江戸時代の砲術家の太郎左衛門と同じ名なのである。同じ名ならば、ふたりは同じ人間ではあるまいか。
 しかし、そんなはずはない。第一、江戸時代におとなだった太郎左衛門が、現在、子どもになっているというわけがないのである。それでは、事の順序がぎゃくというものだ。
 久助君は、じぶんのばかげた考えをうちけした。にもかかわらず、久助君には、砲術家太郎左衛門と、この少年太郎左衛門が同一人物のように思えたのである。江戸時代におとなだった人間が、だんだんわかくなって、いまは少年になっているのだ――さまざまな人間のなかには、そういうような特別な生きかたをするのが、ひとりやふたりは、いるかもしれない。目がぎょろりと大きいところは、この太郎左衛門もあの太郎左衛門もいっしょじゃないか。久助君は、そんなことをくちに出していえば、ひとが一笑《いっしょう》にふしてしまうことは知っていたので、ただじぶんひとりで空想にふけるだけであった。
 その日、学校から帰るとき、久助君は、太郎左衛門の三メートルばかりうしろを歩いていった。むろん久助君は、太郎左衛門のあとをつけていくつもりはないのだが、ぐうぜん、ふたりの帰る方向と歩く速度が同じであったため、こういう結果になってしまったのであると、ひとり弁解しながらついていった。
 あき地のそばを通っているとき、太郎左衛門は、ふいに久助君の方をふり返って、
「きみ、あの花、なんだか知っている?」
と、すこししゃがれた声で、流暢《りゅうちょう》にきいた。そっちを見ると、いぜんここに家があったじぶん、花畑になっていたらしい一角に、小さな赤黒いさびしげな花が、二、三本あった。
 久助君は知らなかったのでだまっていると、
「サルビヤだよ」
といって、美しい少年の太郎左衛門は歩きだした。むこうが話しかけたんだから、こっちも話していいのだと思って、久助君は、すこし胸をおどらせながら、
「横浜からきたのン?」
ときいた。横浜からきたことは、もう徳一君から聞いて知っていたから、いまさらきく必要はないのだが、ほかにはなにもいうことがなかったのである。ところで久助君は、きいてしまってから、ひやあせが出るほどはずかしい思いをした。というのは、「きたのン?」などということばは、岩滑《やなべ》のことばではなかったからだ。岩滑のことばできくなら、「きたのけ?」あるいは、「きたァだけ?」というところである。しかし久助君には、日ごろじぶんたちが使いなれている、こうしたことばは、この上品な少年にむかって用いるには、あまりげびているように思えた。といって久助君は、岩滑以外のことばを知っているわけでもなかった。そこで、どこのことばともつかない「きたのン?」などという中途はんぱのことばが出てしまったのである。もし徳一君や、加市君や、兵太郎君など、日ごろのなかまがいまのことばを聞いていたなら、あとで久助君は、背中をたたかれたりしながら、どんなにひやかされるかしれないのだが、ありがたいことに、それを聞いたのは、太郎左衛門だけである。太郎左衛門はまだ、岩滑のことをよく知らないから、こんなことばも岩滑にはあるだろうぐらいに思って、気にとめなかったのであろう。
「ああ」
と、かれはこたえた。それからまた、赤い花の方を見ながら、
「ぼくのにいさん、あれがすきだったのさ。画家なんだよ」
 画家というのは絵をかく人であることぐらいは見当がつくが、じっさいの画家を見たことのない久助君には、こんな話に、なんと返事していいかわからないのである
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