暗くてよくは見えなくっても、さァっと生気の流れたのがわかった。足がぼうのようにつかれているのも忘れて、みんなはそっちへ走った。
いちばんあとからついていきながら、久助君は、だが待てよと、心の中でいった。あまり有頂天《うちょうてん》になると、幸福ににげられるという気がしたからであった。なにしろ、あいては太郎左衛門なのだから、真《ま》にうけることはできないはずだ。
そう考えると、またこんどもうそのように、久助君には思えるのであった。
そして久助君は、時計をならべた明るい小さい店のところにくるまで、太郎左衛門をうたがっていた。しかし、そこが、ほんとうに太郎左衛門の親せきの家だった。
太郎左衛門からわけを聞いておどろいたおばさんが、
「まあ、あんたたちは……まあまあ!」
と、あきれてみんなを見わたしたとき、久助君は、救われたと、思った。すると、きゅうに足から力がぬけて、へたへたとしきいの上にすわってしまったのであった。
それから五人は、時計屋のおじさんにつれられて、電車で岩滑《やなべ》まで帰ってきたのであったが、電車の中では、おたがいにからだをすりよせているばかりで、ひとこともものをいわなかった。やすらかさと、つかれが、からだも心も領していて、なにも考えたくなく、なにもいいたくなかったのである。
うそつきの太郎左衛門も、こんどだけはうそをいわなかった、と、久助君は、とこ[#「とこ」に傍点]にはいったときはじめて思った。死ぬか生きるかというどたん場では、あいつもうそをいわなかった。そうしてみれば、太郎左衛門も、けっしてわけのわからぬやつではなかったのである[#「太郎左衛門も」と「けっしてわけのわからぬやつではなかったのである」に傍点]。
人間というものは、ふだんどんなに考えかたがちがっているわけのわからないやつでも、最後のぎりぎりのところでは、だれも同じ考えかたなのだ。つまり、人間はその根もとのところでは、みんなよくわかりあうのだということが、久助君にはわかったのである。すると久助君は、ひどくやすらかな心持ちになって、耳の底にのこっている波の音を聞きながら、すっとねむってしまった。
底本:「牛をつないだ椿の木」角川文庫、角川書店
1968(昭和43)年2月20日初版発行
1974(昭和49)年1月30日12版発行
※本作品中には、身体的・精神的資質、職業、地域、階層、民族などに関する不適切な表現が見られます。しかし、作品の時代背景と価値、加えて、作者の抱えた限界を読者自身が認識することの意義を考慮し、底本のままとしました。(青空文庫)
入力:もりみつじゅんじ
校正:ゆうこ
2000年1月27日公開
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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