う。草鞋《わらじ》をはいていたというのがしょうこである。なぜなら、どういうわけか、この地蔵《じぞう》さんには村人《むらびと》たちがよく草鞋《わらじ》をあげるので、ちょうどその日《ひ》も新《あたら》しい小《ちい》さい草鞋《わらじ》が地蔵《じぞう》さんの足《あし》もとにあげられてあったのである。――というのでした。
地蔵《じぞう》さんが草鞋《わらじ》をはいて歩《ある》いたというのは不思議《ふしぎ》なことですが、世《よ》の中《なか》にはこれくらいの不思議《ふしぎ》はあってもよいと思《おも》われます。それに、これはもうむかしのことなのですから、どうだって、いいわけです。でもこれがもしほんとうだったとすれば、花《はな》のき村《むら》の人々《ひとびと》がみな心《こころ》の善《よ》い人々《ひとびと》だったので、地蔵《じぞう》さんが盗人《ぬすびと》から救《すく》ってくれたのです。そうならば、また、村《むら》というものは、心《こころ》のよい人々《ひとびと》が住《す》まねばならぬということにもなるのであります。
底本:「ごんぎつね・夕鶴 少年少女日本文学館第十五巻」講談社
1986(昭和61
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