、きかしてくれました。
「ちょっとわけがあってな、三河《みかわ》の親類へきのう、あずけただがな。」
「ふゥん。」
 と、小さい太郎は、聞こえるか聞こえないくらいに、鼻の中でいいました。なんということでしょう。なかのよかった恭一君が、海のむこうの三河《みかわ》のある村に、もらわれてしまったというのです。
「そいで、もう、もどってきやしん?」
 と、せきこんで小さい太郎はききました。
「そや、また、いつかくるだらあずに。」
「いつ?」
「ぼんや正月にゃ、くるだらあずにな。」
「ほんとだねおばさん、ぼんと正月にゃもどってくるね。」
 小さい太郎は、望みをうしないませんでした。ぼんにはまた、恭一《きょういち》君と遊べるのです。正月にも。

         四

 かぶと虫を持った小さい太郎は、こんどは細い坂道をのぼって、大きい通りの方へ出ていきました。
 車大工さんの家は、大きい通りにそってありました。そこの家の安雄《やすお》さんは、もう青年学校にいっているような大きい人です。けれど、いつも、小さい太郎たちのよい友だちでした。じんとりをするときでも、かくれんぼをするときでも、いっしょに遊ぶのです。安雄さんは小さい友だちから、とくべつに尊敬《そんけい》されていました。それは、どんな木の葉、草の葉でも、安雄さんの手でくるくるとまかれ、安雄さんのくちびるにあてると、ピイと鳴ることができたからです。また安雄さんは、どんなつまらないものでも、ちょっと細工をして、おもしろいおもちゃにすることができたからです。
 車大工さんの家に近づくにつれて、小さい太郎の胸《むね》は、わくわくしてきました。安雄さんがかぶと虫でどんなおもしろいことを考え出してくれるかと、思ったからです。
 ちょうど、小さい太郎のあごのところまであるこうしに、首だけのせて、仕事場の中をのぞくと、安雄さんはおりました。おじさんとふたりで、仕事場のすみのといしで、かんなの刃《は》をといでいました。よく見るときょうは、ちゃんと仕事着をきて、黒い前だれをかけています。
「そういうふうに力を入れるんじゃねえといったら、わからんやつだな。」
 と、おじさんがぶつくさいいました。安雄さんは、刃のとぎ方をおじさんにおそわっているらしいのです。顔をまっかにして一生けんめいにやっています。それで、小さい太郎の方を、いつまで待っても見てくれません。
 とうとう、小さい太郎はしびれをきらして、
「安さん、安さん。」
 と、小さい声でよびました。安雄さんにだけ聞こえればよかったのです。
 しかし、こんなせまいところでは、そういうわけにはいきません。おじさんが聞きとがめました。おじさんは、いつもは子どもにむだぐちなんかきいてくれるいい人ですが、きょうは、なにかほかのことではらをたてていたとみえて、太いまゆねをぴくぴくと動かしながら、
「うちの安雄はな、もう、きょうから、一人まえのおとなになったでな、子どもとは遊ばんでな、子どもは子どもと遊ぶがええぞや。」
 と、つっぱなすようにいいました。
 すると安雄さんが、小さい太郎の方を見て、しかたがないように、かすかにわらいました。そしてまたすぐ、じぶんの手先に熱心な目をむけました。
 虫がえだから落ちるように、力なく、小さい太郎はこうしからはなれました。
 そして、ぶらぶらと歩いていきました。

         五

 小さい太郎の胸《むね》に、深い悲しみがわきあがりました。
 安雄さんはもう、小さい太郎のそばに帰ってはこないのです。もういっしょに遊ぶことはないのです。おなかがいたいなら、あしたになればなおるでしょう。三河《みかわ》にもらわれていったって、いつかまた帰ってくることもあるでしょう。しかし、おとなの世界[#「おとなの世界」に傍点]にはいった人が、もう子どもの世界[#「子どもの世界」に傍点]に帰ってくることはないのです。
 安雄さんは、遠くにいきはしません。同じ村の、じき近くにいます。しかし、きょうから、安雄さんと小さい太郎は、べつの世界[#「べつの世界」に傍点]にいるのです。いっしょに遊ぶことはないのです。
 小さい太郎の胸には、悲しみが空のようにひろく、深く、うつろにひろがりました。
 ある悲しみは、なくことができます。ないて消すことができます。
 しかし、ある悲しみはなくことができません。ないたって、どうしたって、消すことはできないのです。いま、小さい太郎の胸《むね》にひろがった悲しみは、なくことのできない悲しみでした。
 そこで小さい太郎は、西の山の上にひとつきり、ぽかんとある、ふちの赤い雲を、まぶしいものを見るように、まゆをすこししかめながら、長いあいだ見ているだけでした。かぶと虫がいつか指からすりぬけて、にげてしまったのにも気づかないで――
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