はありませんでした。もたれだけが、うしろにのびて、腰かけている人があおむけにねるようになっただけでした。
 天じょうの白壁《しらかべ》や、キャベツの玉のような形の大きい、すりガラスの電燈を見ていると、とつぜん、顔一面に、だッとなにかあついぬれたものをのせられて、目も見えなくなってしまいました。見ていた杉作が、おかしかったのか、ハハハハ、とわらっています。松吉もわらいたいのですが、顔がふさがっていて、わらうことができません。人間は、顔でわらう[#「顔でわらう」に傍点]のだということが、よくわかりました。顔にのせられたのは、むしタオルでありました。
 小平さんはタオルをのけると、太い筆のようなもので、せっけんのあわを松吉の顔にぬり、かみそりで、ひたいぎわからそりはじめました。
 松吉はそのとき、小平さんがまだ子どもで村にいたころ、松吉たちによくいたずらをしたことを、また思い出しました。小平さんはよくうしろから、そっときて、人の背中《せなか》へ手を入れたり、わきの下をくすぐったりしました。そして、小さい目を細くして、にやにやわらっていました。
 いまも松吉は、小平さんが、そんないたずらを、はじめるのではないかと、おしりのおちつかぬ思いでした。ことに小平さんが、松吉の耳をつまんで、二どばかり、耳の毛をそったときには、松吉は、てっきり、小平さんが、むかしのいたずらをはじめたと、思いました。もうすこしで、クックッとわらいだすところでした。しかし、小平さんの顔を見ますと、まじめな顔をしていました。あそび[#「あそび」に傍点]をしているのではない、仕事[#「仕事」に傍点]をしているおとな[#「おとな」に傍点]の顔つきでありました。
 松吉には、小平さんがおとなになったから、もうあそばない[#「あそばない」に傍点]ということがわかりました。おとなは仕事をするのです。たとえ、人の耳をつまんでそるというような、いたずらみたいなことでも、小平さんは仕事ですから、まじめにするのです。松吉には、おとなになるというのは、ふざけるのをやめて、まじめになる約束のように思われました。なんとなく、さみしい感じがしました。
 すみの洗面所《せんめんじょ》で頭をあらい、もう一ぺん腰《こし》かけにもどり、顔に、ぬるぬるしたものをぬってもらうと、松吉の番はすみました。こんどは、弟の杉作がかわって、腰かけにのぼり
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