い住宅区域の、郊外に近いところまで来た、と見ると新築間もない小締《こじんま》りした家の格子を、腹掛をした帳場の親方らしいのが雑巾がけをして、中では未だ片附かぬらしい物音が聞える、新しい標札をチラと見た春日は帽子を取て、
「御免下さい」
 と案内を乞うた。玄関の障子を静に開けて丸髷の初々した二十二三の美人が、淑《しとや》かにお辞儀をした。
「中岡《なかおか》さんがお在宅《いで》なら一寸御面会願いたいですね」
 名刺を差出すとどうぞ暫くと、云い残して二階へ登《あが》って行くと入違いに快活な三十歳位の男が降りて来て磊落《らいらく》な語調《ちょうし》で
「サア上って下さい、移転《ひっこし》早々で取乱して居ますが、どうぞ二階へ」
「じゃ失敬します」
 渡邊の耳元へ低声《こごえ》で※[#「口+耳」、第3水準1−14−94]《ささや》いておいて、自分独りで二階へあがっていった、軈て低い春日の声に混って、主人《あるじ》の太い声が断片的《きれぎれ》に洩れて聞えてくる。
「……、そう責められると今更弁解がありませんな。アハ……、あれ計りのものを亡くしたからって決して悔てはいませんよ、吾々の幸福なことはまだまだ外にあります、……あれにはあれとして進むべき道がありますからね、啓《ひら》いてやりたいと思うのです、……幸福にしてやるために、払う犠牲は惜しいとは思いませんよ……」
 茶を運んできた此家《このや》の美しい奥様は、耳朶《みみたぶ》を染めながら嬉気に頬笑んだ。

 楽しい新家庭に訣《わかれ》をつげて、春日と渡邊が事務所へかえったのは、燈《あかり》がついてからであった。渡邊は漸く笑ましげに、
「ねエ先生、中岡という家の奥様は、若しや?」
「今判ったのか、ゆき子に違いないのさ、探偵学でも研究するものは、頭を敏活に働かせねばいかんよ、まあ掛け給え、事件の推理方法を説明しよう。
 初めに見たゆき子宛の脅迫状は、書簡箋《レターペーパー》にインキでかいてあったが、その筆蹟はどうしても筆記《ノート》を永年やりつけた者か、職業的にペンを使用する人に通有の癖があったから、智識階級の仕事だと睨んだ、これが第一歩だが君は娘の部屋を見たね、鏡台の抽出《ひきだし》と机を除いて、余り冷たく生帳面《きちょうめん》に整理されてあったよ、娘の部屋として不似合にね、箪笥は平素錠を下さない癖らしく一番上の、比較的高貴でない品を入た抽出だけ常に錠を掛けてあってそこには既に何等の秘密も蔵《かく》されてなかった、地袋の中には、汚れや傷《いた》み方《かた》から観察して新年に一度か二度使用した歌留多があったね、賢い女だが昨年度の日記を葬ってしまわなかったのと、下女に買物させるに菓子を撰んだことは捜査上非常に推理を容易ならしめた、菓子箱には未だ沢山あったよ。
 日記で見ると、年の暮に弟の友達と自分の知人《しりびと》を新年の歌留多会へ招待することを姉弟して相談した上で客の顔振《かおぶれ》も確定したのだけ記してあったが、僕は善太郎の学友の名を暗記しておいた、彼女《かれ》は義父の圧迫や、空虚な家庭内の淋しき生の悩みなどで神経的な沈鬱な性情に変化していたことは日記や書籍を通じてうかがい知れる、けれども近頃読で居た地袋の新刊|書籍《もの》から測るに、その煩悶を信仰によって救われて居る、その信仰に走った刺戟《しげき》と機会とを与えたものがあるね、それは、此紙包を見給え、火鉢の中から出てきた燐寸《マッチ》の燃滓《もえかす》と紙を焼いた灰だ、彼女は莨《たばこ》を喫《のま》ないぜ、この燃殻《もえかす》の紙は脅迫状の紙と同質なんだ、机の下から発見した半巾《ハンカチーフ》ね、あれには手紙を包んであった皺が瞭然《はっきり》残って、しかもナフタリンの匂《におい》が沁《し》みこんで居た、箪笥の中にあったものたることは疑われない、然りとすれば脅迫状の主と、娘とが常から通信をやっていたことになるね、不届な郵便屋だ、ここに捕縛して来た、こりゃ君、女学校で用《つか》う手芸用の箆《へら》だよ、此奴が裏の塀の根元を掘て手紙を埋めたり掘出したりした奴さ、塀の内外《うちそと》は夜なら誰にも知れず一仕事やれるからね、脅迫状にも細かく折った筋が残っていたね覚えて居るだろう、
 それで近頃衣類を新しく調《こし》らえた形跡がなくて、通信用の書簡箋を鑑定するに及んで物資の窮乏を感ぜない、まア資産階級の仕業《しごと》と判った。君女は吾々と違って洋服一点張りじゃいけないのだ、これから時候は寒さに向って、加之《しかのみならず》常着《ふだんぎ》から総《すべ》てを新調して世帯道具を揃えることは中々容易じゃないよ、
 公然|単独《ひとり》で墓参に行くと、そこには必ず誰か彼女を待って居るものがあった、所謂誘拐される四日前も二人は遇《あっ》た、そして女は降りかかる
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