誰も居なかった。
 扉の内と外とで感銘的な挨拶が交された。
「いろいろ有がとうございました、では御機嫌よく……」
「貴方もお壮健で……お気をつけていらっしゃい」
 戸外は相かわらず紺絣《こんがすり》を振るように、霙《みぞれ》が風にあふれて降って、疎《まば》らに道ゆく人も寒そうに傘の下に躯を固くしながら歩いている。放浪者は腕を組合せたまま肩をすくめて、電車にも乗ろうとしないで灯影の少い街に向って消えてゆく。可惜《あたら》かわした上衣の襟に袖に、降りそそぐ氷雨をまともに受けて。
「電車にも乗らないで……ひとに姿を見られるのが厭《いと》わしいのだろうか、前科者の怯目《ひがめ》を自分から遠慮してかかっているのか?」
 いつまでもいつまでも硝子扉の蔭から、その姿が見えなくなるまで見送って、こう呟いた小村はそれからやっと二階へ引返し暖炉の傍へ寄ったまま、先刻からの状景をもう一度彼の頭脳の中にくりかえして見た。
 私は先刻ここで川上《かわかみ》と頻《しき》りに主題循環論をやった、そのうち川上は帰ってしまったのだ……それから私はこんな氷雨ふる夜を捕吏に逐《お》われて逃げ廻る破獄囚《はごくしゅう》のこと
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