つたいに彼女の部屋の方へ近寄っていったのです。
せめて余所《よそ》ながら蕗子の顔を一目見てから、慾を云えば何とか一言口を利いてから出立したくなりました。折角《せっかく》心持が緊張しているうちにやり遂げたかった計画も、こうした状態《ありさま》でずるずると一角から崩れはじめました。
どうしてそんな気になったのでしょう。不図顔をあげて、灯のさす窓を仰いだ私は、障子へすゥと流れるように映った男の影法師を見て、思わず眼を※[#「目+爭」、第3水準1−88−85]《みは》ったのでした。
おう、蕗子の部屋には中谷《なかたに》が来ているのだ、そうだ、この土地へ来てからたった一人の友人で、まるで兄弟のように親しみ合っていたのが、蕗子というものを中心とするようになってから互いが妙に白け合ってしまい、とうとう蕗子から私と云うものをまったく駆除してしまったあの中谷、今日私を他郷《よそ》へ流転の旅に送出《おくりだ》そうとした中谷が来ているのだ。
私は少時《しばらく》そこに立縮《たちすく》んでいました。
ところが或事に気付いた私は悸然《ぎょっ》としました、外《ほか》でもありません。中谷なら髪を長く伸している筈ですのに、いま映った影法師はたしか毬栗頭《いがぐりあたま》だったではありませんか。
不思議さのあまり呆然そこに佇んでいると、不意に背後から私の利腕《ききうで》をぐッと掴んだものがあります、愕《おどろ》いて振顧《ふりかえ》ると見も知らない男が私の方を睨みつけながら、ぐいぐい腕を引張ります。不意ではあり何のことだか夢のような心持で、抵抗《てむか》いもせず扈《つ》いてゆくと、その男は私を蕗子の家の表口から連れこみました。
すべてこの出来事が私にとって解けない謎だったのです。
台所には蕗子の妹で十三か四になる艶子《つやこ》が、近所の内儀《おかみ》さんたち二三人に囲まれて、畳に打伏したまま潸々《さめざめ》と泣いていました。
その次の間の仏壇にはつい先月|窒扶斯《ちぶす》で亡くなった母親の位牌《いはい》が、灯明の灯にてらされながら、立ちのぼる淋しい香煙に絡《から》まれていました。その次が蕗子の居間です。
内部の情景を一目見せられた私は、想わずあっと愕《おどろ》きの叫びを立てましたが、俄《にわか》に体中が慄《ふる》え出し、奥歯のかちかち触れ合うのが止みません……何という惨《むご》たら
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