やわれを忘《わす》れて歌っていました。
「なんという名手《めいしゅ》でしょう……ひろい国じゅうにも、これにまさるものはありますまい。」
「まことに、わたしも生まれてはじめて聞きます。」
 そういうささやき声が、そちこちから聞えました。
 法師は、ますます声をはりあげ、ますます、たくみにびわをひきました。平家《へいけ》一|門《もん》の運命《うんめい》も、いよいよきわまり、安徳天皇《あんとくてんのう》をいただいた二位尼《にいのあま》が水底《すいてい》ふかく沈《しず》むだんになると、いままで水をうつたようにしんとしていた広間《ひろま》には、いっせいに悲しげな苦《くる》しげな声が上がりました。その声は、だんだんと高まって、はては大声で泣きさけぶ声さえ、聞えてきました。
 法師はなんともいえない気持にうたれながら、しずかに一|曲《きょく》をひきおわりました。広間《ひろま》の人びとの声は、それでもまだしばらくのあいだ、なげき悲しみつづけていましたが、いつか流れがたえるようにきえていくと、こんどはまた、恐ろしいほどのふかいふかい沈黙《ちんもく》と、静寂《せいじゃく》が広間いっぱいにこもりました。
 しばらくしました。と、さっきの老女《ろうじょ》の声が、また法師の耳もとでしました。
「かねて聞いてはいましたが、そなたのびわには、こころから感服《かんぷく》しました。ご主君《しゅくん》も、ことのほかおよろこびになりました。お礼《れい》に、なにかよいものをおあげしたいが、旅《たび》のことで、なにもなくお気のどくです。けれどこれからあと六日の滞在《たいざい》ちゅう、毎夜来て、こよいの物語を聞かしてくだされば、ありがたいことです。あすの晩も、おなじ時刻《じこく》に使《つか》いのものをあげますから、どうぞおいでくださいまし。なお、念《ねん》のためもうしそえますが、ご主君《しゅくん》は、ただいま、おしのびの旅をなされていられるのですから、このことは、どのようなことがあっても、いっさいひみつに、だれひとりにも話さぬよう、くれぐれもおたのみもうします。」
 まもなく法師《ほうし》は、また女の手に案内《あんない》され、大げんかんへ来ました。そこには前の武士《ぶし》が待っていて、法師をあみだ寺《てら》までおくって来てくれました。

     四

 法師が寺へ帰ったのは、夜あけ近くでありました。お坊《ぼ
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