やうだね。君ロオレライつて歌を知つてゐる?」
「僕はそんな文學的の事は知らない。」
「然し綺麗な女の人魚でも居るつてことは想像されるね。」
「あ、セエリングが來た。きつとまた西洋人だね。」
「ここの下ばかりへ船が來るのかい。」
「ああ。」
「向ふは。」
「島から向ふにや行かないよ。波があるからだらう。」
「あつちへ行つて見ようか。」
「止さう、咽喉が乾いた。家へ早く行つてラムネを飮まう。」
 二人の少年は橋のところから去つた。彼等は山の中の不動の瀧といふ瀧を浴びに行つて歸つたところである。
 少年の一人は富之助で、それより一つ年上の方は其|從兄《いとこ》であつた。
 富之助は無理に父の家を出て、從兄の故郷へ遊びに來たのである。
 少年が立ち去つたあとから二人の旅行者と一輛の空の馬車とがこの橋の上を過ぎた。それからは長い間誰も通らないで、太陽はやや傾き、なほも爍々《しやくしやく》として、岩層、橋梁、樹木、雜艸、空低く飛ぶ鴎の羽を照らした。

 富之助は旅行して來た始めには、詳しい懺悔の手紙を父母や姉に出して、そして姉の今在る危險の状態を警戒し、そして自分は死を以て過去の罪と汚《けがれ》とを洗ふ積りであつた。所がその手紙といふものがどうしても書けない。
 自殺――死といふものは美しい幻影である。然しながらその死の原因となるものは、その美を飾る所以《ゆゑん》ではない。それ程明かに分つては居なかつたけれども、富之助は内心この矛盾の爲めに煩悶したのであつた。
 誰か美しい娘でもあつて、その人との戀愛が成立たない爲めに世をはかなんで死ぬ。さう云ふのなら自分にも人にも美しい死であると思つた。けれども實際はさうではない。
 が然し段々富之助の空想の内へ一女人がはひつて來た。それは同じ町の女で彼と同年輩か、或は一つ年上位の美人である。
 二三年前に富之助はこの女に少年らしい愛慕の情を傾けてゐたが、今や彼の腦中にまた鮮かな像となつた。そして彼の死といふものと、この女の美といふことが、段々に相分つべからざるものになり始めた。
 次に富之助の心に、父母近親の者を怨むの考が芽生え始めた。彼の志望といふやうなもの、彼の偏愛といふやうなもの、即ち彼の個人的の自由は總て是等の人の意嚮《いかう》のために破壞せられる。不得意な數學の試驗に落第する夢を見て始終心を驚かすが如き、その爲である。彼はその最も近親なるものを頼むことが出來ないといふ心を起した。
 かくの如く、自分を憫《あはれ》むの情は、かれの空想的の死を一層合理的なものとなし、且また悲壯的のものとなした。
 理由を明さないで自ら殺さう。といふ考が段々發展して、嚮《さ》きに考へた道徳的負擔から逃れる爲めといふよりも、樂な心持を與へた。
 一方富之助が死の空想を飾り、之を多樣に構想して居る間に、遠い姉に對する不祥な豫感が、絶えず、現實的の威嚇となつて彼を襲うてゐた。
 かう云ふ懊惱《あうなう》が富之助を痩せさせる間に、三日經ち五日經つた。
 船に一杯の石油を積み、それに爆發物を載せて、夜の海上に船を爆發させ、それと共に死なうなどと空想したこともあつた。
 或は富士の人穴のやうな誰も知らない洞の奧に這入つて、死後も人に見付からないやうに死なうかとも考へた。
 然し一番良いのは、かの海を臨む懸崖から、過失のやうに見せて死ぬといふことである。
 或る月の良い晩に富之助が從兄の耕作に言つた。「僕は昨夜《ゆうべ》△△崎まで行つたよ。實に寂しかつた。」
「昨夜? 一人で。」
「ああ。」
「何しに行つたの?」
「膽力を試す爲めに。」
「本當かい。」
「本當だ。」
「そんな事をすると叔母さんが心配するよ。」
「僕は今夜も行く積りだ。」
「今夜は月が無いぜ。」
「暗い方が一層爲めになる。」
 故郷の家と違つて、從兄の家は大きな漁業家で、出入の人も多く、夜なども碌々戸締りを爲《し》ないやうな工合で、好きな時に行きたい所に行かれて非常に自由であつた。無論近くには惡い街區などあつて、召使のものの夜遲いのは咎められたけれども、少年として、また學生としての富之助の行動は、誰にも咎められることはなかつた。
 富之助が屡《しばしば》夜中に外出することは漸く人の氣付く所となつたが、その所謂《いはゆる》膽力養成と云ふ言葉が、凡ての疑問の發生する餘地を與へなかつた。
 然し注意すると、富之助の容貌や行動に不思議の事が多かつた。

 午後の日盛りの最中である。一種|森閑《しんかん》たる靜寂が海濱の全局を領して、まるで全體が空虚であるやうであつた。
 たつた一人の男の子が濱に見られるばかりである。水平線には雲もない。海上には船もない。それだけにその男の子は海の上を一生懸命に見詰めてゐる。
 そこへ年の寄つた漁夫が一人來た。少年はやや力を得たやうにその漁夫に言つた。
「人が一人海から戻つて來ない。」
 漁夫は少年の言つたことが理解せられないやうに、怪訝《けげん》な目付をした。「何ね。人がね。」
「沖へ出て戻つて來ない。」
 その返事と同時に漁夫が叫んだ。「沖へ出て戻つて來ないね。――そりや大變だ。」
 さう漁夫が言つたから少年は喫驚《びつくり》した。そして突然泣き出した。
「誰だね、あんた。」と漁夫が問いた。
「家い來て居る富さんて云ふ友達だ。」
「そりや大變だ。――着物はあるのかね。」
「着物と下駄はあの船の下にある。」
「そりや大變だ。」と漁夫は三度さう云つた。「あんた此所に立てお出でな。わしやあんたつち家《うち》へ行つて皆《みんな》あ呼んでくる。」
 漁夫は急いで驅け去つた。少年は濱に立つてゐる。水の上に若しや人の頭らしい黒いものは見えないかと、きよろきよろ海の上を見乍ら立つてゐる。
 海は再び靜かになつた。唯|渚《なぎさ》に小さい波が崩れた。
 此靜けさは、然し今に大變な事の起る前の時の氣味の惡るい靜けさのやうに見えた。
 忽ち一群の人々が濱へ驅けて來た。濱は忽ち大騷ぎとなつた。それでもなほも引きも切らずに、大勢の人々が濱へ濱へと驅つた。
「山長のとこのお客さんが海で見えなくなつたつて。」
「今濱ぢや船を出した。」
「地引網の衆を頼みに行つた。」
「潜水の女しを搜しに行つたが、生憎《あいにく》一人も家に居なかつた。」
 人々は道を驅けながら、互に磨《す》れ違ひながら、こんなことを話し合つた。
 五六艘の船が沖合へ出た。
「この邊か、この邊か。」などと船の上から呼ぶ聲などがする。
「分るまい。あすこにや底に潮流があるから。」などと語つてゐる人がある。
 船から大勢わらわらと水へ飛び込んだりするのも見えた。網が打たれた。
 網の中へ死骸がはひつて、それが漁夫に取り出されるまでには、それから尚かなりの時間が掛つたのであつた。青い冷い重い屍體が濱の砂の上に上げられた。
「お前たちそこへ立つでねえぞ。」と山長の若い旦那が叫んだ。そこへ巡査が來てまた見物を制した。
「どうですえ、此處ぢや、あんまり人立がしますから、あすこの裏を借れちや。」
「さうさ。お前さん一つ頼んでおくんな。」
 赤い毛布で包まれた屍體が海濱の漁夫の家の裏庭へ運ばれた。それでも大勢の子供たちが木戸の外から眺めてゐる。
「もう脈がない。」と醫者が言つた。「カンフルが足りないから、早く使ひをやつておくんな。藥局の劇藥の棚にある。家の人に言へば分る。」言下に二三の人が飛び出した。
「もつと構はねえから人工呼吸をやりなせい。海軍ぢや一時間位やる。」
「おお、さうだ。佐治衞門さんのとこの伜が可い。海軍だから好く知つてゐるだらう。」
「早く體《からだ》あ倒《さかさ》にして、松葉の煙で燻《いぶ》すが可い。」
「さつきから松葉々々つて言つて居るがどうしたらう。」
「そんなこたあ爲なくても可い。水はもうみんな吐いた。」
 醫者は眼瞼《まぶた》を開いて見たり、聽診器を胸に當てたりしてゐる。
「どうですえ、少しや見込がありますかえ。」
 醫者ははつきりとした返事をしない。
 カンフルを取りに行つた使が歸つて來た。また胸へ注射をした。胸にはもう絆創膏の迹が四つ五つある。
「海軍は來ないか、海軍は。」 
「來たよ、來たよ。」
 元海軍の兵曹であつた男が、今までの男と變つて、ちよつと氣取つた手附をして人工呼吸を繰り返した。
 屍體は生きた人間の通りの形をしてゐながら青つぽく黄ろい色をして、冷く固まつてゐる。薄い紙を濡らして鼻や口の前に置いたりする男がある。
 さう云ふ間に小一時間の時間が經つ。
「どうですねえ。」と女の人が悲しさうに尋ねた。
「どうも。」と醫者が曖昧な返事をした。
 も一人の鬚の濃い醫者が來た。肥つた赤ら顏に微笑を湛へて、先の醫者に挨拶した。そして自分も洋服の隱しから聽診器を出して屍體の胸へ當てて見た。そして脈を觸つたり、眼瞼を開いたりして見たが、最後に右手で輕く好い音を立てて、屍體の胸をはたと叩いて、其れと同時に、「もう不可《いか》ん。」と言つた。
 その調子がいかにも黒人《くろうと》じみてゐて、今迄の努力の廢止を促《うなが》す絶對の合圖となつた。
 それで人々は俄に色めき出して、次の仕事に取り掛つた。
 是れが土屋富之助、十六歳、中學二年生の最後の有樣であつた。
 日は八月十七日。一月遲れのお盆の終つた翌日である。
 彼の故郷では、かう云ふ出來事を全く豫感せずにゐた。
(大正四年九月)[#地付き]



底本:「現代日本文學全集17」筑摩書房
   1968(昭和43)年4月5日初版発行
入力:伊藤時也
校正:小林繁雄
2001年1月19日公開
2001年3月5日修正
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