閃くことがある。それを考へなほすのは非常に不道徳な事に思はれて、なるべく考へまいとする。それで今夜は一晩寢ずに居よう。それが一番よいと決心した。
然し萬一夜中に客が起きて便所に行くとしたところで、其れまでの間には家の人の寢てゐる部屋をば通る必要は少なかつた。姉のおつなは二階に寢た。二人は下の新座敷の隅の間で、夜靜かになると川の水音が響いた。
次の朝はいつになく早く富之助は目を覺した。夢の記憶は少しも殘つて居ないが、そのあとの不快が殘つた。
今日は客を案内してその宿へ連れてつてやらう。そして自分は今までの事一切を姉に懺悔して、そつと旅へ出よう。彼の男の毒の眼が姉を窺《うかが》つてゐる間は姉には外出させまい。
そんな事を考へてゐると、突然忘れはてた今曉の夢が思ひ出された。近藤といふ友達が内證だが君に話すと云つて、小さい聲で富之助の耳にささやいた。君鹿田が君の方へ行くつて云つたらう、ありや君のシスタアを狙ひに行くんだと云ふんだぜ。君、あの男は恐《こは》いぜ。
鹿田が言つた。さあ、僕にお前の着物を借せ、帽子も、シャツも。可いか、これからお前が僕になつて、僕がお前になるんだぜ。僕はお前んとこに住む。それがいやならお前のお父さんに皆云つてしまふぜ。お前が己《おれ》の稚子《ちご》だつて。お前はおれに連れられて吉原を見物に行つたつて事まで……
「今日はどうしても斷行する。」さう富之助は考へた。「唯姉に皆言つてしまふことは止《よ》さう、あの男は惡い男だから要心しなさいつてことだけは言はう。そしてわたしは内に居るのはいやだから旅行すると云つて出て行かう。誰も知らない遠國の山の中へ入つて行つて、そこから一伍一什《いちぶしじふ》を認《したた》めて、姉や父母に詫を言はう。そして誰も知らないやうにこの世界から別れてゆかう……」
かう云ふ空想は悲哀であるよりも慰藉であつた。七時が鳴るまで富之助はそんな事を考へ續けた。枕の布が涙で濕つてゐた。
朝のうちに富之助は客を送つて海岸傳ひに半里ほどの小村落へ行つた。老人が隱居に建てて、自分は住まぬうちに死んで、其後は避暑の客に貸せる漁夫の家の離座敷である。
昨日と違つて日は赫々《かくかく》と海、波、岸の草原を照射した。
客を送つて歸つて來て、富之助は一安心して二階の自分の部屋に寢た。そしてすぐ旅行に立たうといふ今朝の考とは反對に、唯何となく時間を過した。
午後姉は二階の富之助の部屋の隣の部屋で長い間縫物をした。そこには琴、鏡臺、二三の女に適《ふさ》はしい書籍の類があつて、おつなの稀にする美的生活の一面を暗示するのである。富之助は默つて姉の女らしい所を觀察した。
殊に姉がこの日の日盛を少し過ぎた頃に髮を洗つて、その房々とした毛を輕く藁で結はへて二階に上つて來たときには、姉とは言ひながら、強い性の印象を富之助に與へた。そしてそれがいよいよ富之助をして彼の鹿田を恐れしむる原因となつた。
富之助がさう云ふ風に自己に第三者の眼を與へて觀察すると、ここの家庭に一種濃厚の雰圍氣のあることを知つた。老父の詩人的趣味、母の女らしい優しみは無論その空氣を構成するものであつたが、もつと大きな要素は實におつなの成熟した處女としての現象であつた。
鹿田はその日の夕刻、さう云ふ濃厚な妖氣中にはひつて來たのである。
その日は勿論、次の日も富之助は旅行に出なかつた。
河口に汽船の笛がする。また日に幾度かは停車場で汽車の響がする。その度毎に富之助は腸《はらわた》を動かしてゐる。
第三日の午後富之助は鹿田と伴つて、漁舟を借りて釣に行つた。さうして、いやいやながら鹿田と交際《つきあ》つてゐるうちに、漸く鹿田の性格の變化に氣が付いた。夏休前東京で會つた時とは違つて、非常に沈默家になつて居る。そして始終何か考へ事をしてゐるやうである。元來氣味惡い其眼元には、また一種の暗光が燃えて居る。
しかのみならず彼は富之助に對して未だ嘗つて示したことのない鄭重な態度を取つた。一たびも冗談を言はない。何時も醜い恐ろしい口は大抵堅く鎖《とざ》されてゐる。釣などする時には、年少者のやうに、いろいろの事を富之助に教はつて、釣に餌《ゑさ》をつけ、絲を水に投げる。そしてぼんやり考へ込む。
夕日の眞赤な光が對岸の緑の平野の上に被ひかぶさつて、地平線を凸凹《でこぼこ》にする銀杏樹《いちやう》らしい、また欅《けやき》らしい樹の塊りは、丁度火災の時のやうに、氣味わるく黒ずんでゐる。川の上には金のやうな光が映つた。
その時、今まで默つてゐた鹿田が言つた。
「どうだらう。こんな時に水の中へ沈んだら愉快だらう。一緒に飛び込まうか。」
この言葉の調子は冗談とは聞かれないほどであつた。富之助はぎくりとした。
少時《しばらく》してからまた鹿田がこんな事を言つた。「今朝僕の下宿の隣の家へ東京から女學生が二人來た。自炊をするのだつて云つて。それが君の姉さんの友達だと見えて、君の姉さんも尋ねて來られた。」
富之助はこの言葉を聽いて二度ぎつくりとした。ぐづぐづして居られないと思つたからである。然し鹿田が直接富之助の姉に就いて語つたことは是れが最初であつた。また最後であつたかも知れない。
舟が岸に戻つたときは、もう薄明《はくめい》の時だつた。富之助が舟から色々のものを取り出してゐると、後ろでやさしい聲が聞えた。
「富ちやんかえ、たいそう遲くなつたねえ。」
見ると姉が隣の子を背負つて岸に立つてゐる。夕方のぼんやりと青ずんだ空氣の中に、其ほのかに白い姿は魔のやうであつた。
「あんまり遲いから迎へに來たの。」
姉は鹿田に目禮して、富之助にさう云ふのである。
二人は姉を先にやつて、漁夫の一人に荷を持たせて其後から行つた。
その時鹿田は一言《ひとこと》も物を言はなかつた。
一體鹿田が一日一日氣むづかしくなつて行くのは富之助にも分つた。そして富之助に對する態度も夏休前とは全く異つて、異常に鄭重《ていちよう》で、少しも馴れ馴れしい所を示さなかつた。殊に今日釣に出てからは殆ど物を言はないで、唯考へ事ばかりしてゐるやうに見えた。
姉のおつなを見ると、よくは見ない風をした。
が富之助は鹿田のこんな風な態度を見て、無意識に或る事を直感してゐる。即ち心情に強い刺戟をうけた野蠻人に對する畏怖の念である。
富之助が鹿田の住んで居る宿へ行つて見た時には、鹿田はぼんやりとして煙草を飮んでゐた。本もない。荷物も何もない。唯机の上に鏡と化粧道具とがあつた。どうして毎日日を送つてゐるか想像が出來なかつた。
窓へ腰を掛けると、少し小高くなつた丘から、直ぐ目の前の海が見える。葵《あふひ》の花が薄赤く咲いてゐる。「あの家だ。」と鹿田が指をさして教へた。「東京から女學生が來た家は。」
姉の友だちのことは姉から其後富之助は聞いた。そして時々姉がその宿へ遊びに行くことを知つてゐる。鹿田の爲めには、もつて來いの状態である。さう富之助が思つた。「もう一刻も猶豫はしてゐられない。」
夕方歸る時に鹿田のゐる漁家の小さい息子が車に米俵を積んで町へ行くのと一緒になつた。そこで富之助はその子に聞いた。
「お前のとこに來た東京のお客さんは酒を飮むかえ。」
「へい、大抵晩に飮みます。」
「澤山飮むのかえ。」
「毎晩五合づつ買ひに行つたが、面倒くさいから昨夕から一升買ひました。」
「ひとりで飮むかえ。」
「始めには獨りで飮んだが、時々は家の兄さんと一緒に飮むことがあります。それに別莊から客が來ることがあります。」
其別莊と云ふのは同じ土地へ東京の人が建てたもので、そこへ毎年學生たちが來るのである。
「夜は早くねるかえ。」
「時々夜中まで歸つて來ないことがあります。」
「○○(遊廓のある町名)の方へ行くかえ。」
「どうですか。」といつて笑つた。
「何してゐるえ、一日。」
「何して居ますか。」
「一日家にゐるかえ。」
「大概家にゐます。」
「何か話をするかえ。」
「何にも言はないで默つてゐます。」
會話は要領を得なかつた。
富之助の家では寫眞が一枚無くなつた。姉のおつなが東京の叔母と寫したものである。それを急に母が郵便で東京に送らうと思つて搜したが見付からなかつた。然し皆別に氣に止めはしなかつた。富之助は寫眞箱を出して鹿田に見せたことを覺えてゐる。それ故富之助ばかりは、是はてつきり鹿田が持つてつたものと信じてゐる。
富之助は毎日毎日いろいろのことに神經を惱ましながら、それでも何もしないで家にぐづぐづしてゐたが、或る一日、今日はどうしても一伍一什を、せめて母にだけでも話してしまはうと考へながら、到頭その日も話すことが出來なかつた爲めに、非常に煩悶した。
そして家から逃げ出さうと空想した。
やはり海岸で陸地が崖に成つて居る處があつた。道路はその崖の上で、若し過《あやま》てば海に落ちるやうなこともあるから、所々には針金を通じた木柵を建ててあつた。崖から下を覗くと數丈の赤松が繁つて其間に碧漫々たる海が見える。時とすると、水が靜かなところから、夕方などに船が懸つてゐることがある。正に一幅|豪宕《がうたう》の畫圖である。或はまた西洋人の女だちが、わざわざ短艇をここまで出して、人目を避けて遊泳をすることもある。さうすると人は遠眼鏡でそつと海面を眺めて喜んだりした。
午後の四時ごろの烈々たる日光は、草の緑、土の紫、海の碧、凡てありとあらゆるものをまつ黄色にして、地球を孵化させようといふ勢である。そこへ二人の少年が山の方から下つて來た。
二人は道と道との間を、海の上へ懸け渡した小橋の上に來かかつたが、突然一人が言つた。
「隨分ここから下は深いなあ。若し落ちたら死ぬだらうか。」
「そりや死ぬにきまつてゐる。」と他の一人が答へた。「下まで屆かないうちに人間は死んでゐる。」
「なぜ下まで落ちないうちに死ぬだらう。」
「なぜだか知らないけれども、飛行機から落ちても、下まで屆かないうちに死ぬさうだ。」
「華嚴《けごん》やなんかの瀧でもさうだらうか。」
「瀧ぢやどうだか分らない。途中岩へぶつかつたりするから。」
「下まで落ちないうちに死ぬのなら苦しくはあるまい。」
「そりや苦しくは無からうと思ふ。」
二人の少年は橋の欄干へ手を懸けて、深く海の底を眺めてゐる。碧澳《へきあう》の水が澄明で、中の岩まで見えさうである。
そこから視點を外《そ》らして、自分の立つてゐる橋まで及ぼすと、一種の對照の感情を覺えて、身の毛がよだつことがある。それと同時に、なんか、中へ飛び込んで見たいと思はせる誘惑がある。
「はつ!」と一人の少年が大聲を擧げた。も一人のは喫驚《びつくり》して振り迎つた。
「おお、びつくりした。何うしたともつた[#「もつた」は「おもつた」の誤記か]。」
「下へ飛び込んだら、何うだらう。」
「止し給へ、冗談はしたまふな、魔が差すことがあるよ。僕は喫驚して、も少しで欄干から手を放すとこだつた。」
「一萬圓賭けたら、下へ飛び込む人があるだらうか。」
「一萬圓だつて有りやしない。」
「有るかも知れないよ。」
「いくら一萬圓だつて、死んぢや貰ふことは出來ないぢやないかね。」
「然し一萬圓貰はなくても、飛び込む人があるからね。」
「そりや別だ、厭世家だから。」
「然しどんな氣持だらう。」
「分りやしない。」
「僕には分るやうな氣がする。久しく下を見てゐると、飛び込みたい氣になるよ。」
「君は氣違だから。」
「僕はもとから屡《よく》人に氣違だと言はれたことがあるよ。」
「そんな人は危險人物だ。」
「その代りに何かで決心が付きや、僕はきつとこの處へ飛び込むね。それが國家の爲になるとか、人を救ふとかいふことになれば。」
「君には犠牲的精神があるといふのだらう。」
「別にそんな事を高慢にするのぢやない。」
「然し考へると本當になるつて言ふよ。」
「美だと思ふ、僕は。こんな處から下へ落ちて死んだら、肺病や何かで死ぬよりも好いぜ。」
「馬鹿だなあ、暑いや、早く行かう。」
「見給へ、水の底がまつ青に見えるよ。水の精でも棲んでゐる
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