は「えんにょう+囘」、第4水準2−12−11、231下−8]りかけると、其途端に彼は鹿田を發見した。そしてわつと叫んだ。……
「みんなおとつさんに話してしまふぞ」さういふ鹿田の聲が後から聞えた……
「兄さんまだ寢て居るの」とその瞬間に彼はある優しい聲を聽いたのである。
時計が四時を打つた。
少時《しばらく》して彼はやつと心を靜めた。もう試驗は疾《と》くに濟んでゐる。畫の試驗などの滯《とどこほ》つて居るものはない。……さう云ふ風に段々安心して來たが、やがて鹿田といふ名のことに想ひ到ると、それらの安心は凡て空虚の安心であつたといふ事に氣が付いた。
「八重ちやん、今鳴つたのは四時だねえ。」妹が答へた、「ええ、四時よ。兄さんに、毒だからもうお起きなさいつて。」
さう云ふ會話をしながらも彼は起き上らなかつた。實際手足が痺れて居るやうで起き上ることも出來なかつた。身體ぢゆう汗びつしよりになつて居る。呼吸が苦しく感じられる。大熱を病んだあとのやうで、どうしても起き上ることが出來ない。
また少しうとうとする。さうすると息苦しさが一層強くなる。居ても立つても居られない……世界の際《はて》へ來たやうな、名状すべからざる不快の氣分が彼の全官能を襲つた。
忽ち或る朗らかな聲がした。「富之助、お前どうしたの。今日は寒いから、お前、風を引くよ。」
姉のおつなの聲である。おつなは何時ものやうに、粗末な鼠つぽい阿波縮《あはちぢみ》の單衣《ひとへ》を着て、彼の枕元に立つて居た。「素麺《そうめん》が出來たから下へ行つておあがりよ。」
少年は昔讀んだ「雪野清」といふ小説のことを思ひ出した。
姉はまた語を續けた。「お前の友達つて人は本當に今日來るの?……何なら今夜内へ宿《と》めてやつても可いとおつ母さんが言つてお出でだつた。」
富之助はこの言葉を聞いてぎくりとした。そして周章《あわ》てて言つた。「姉さん、そりや内には宿まんない方が可いよ。友達つて云つたつて僕よりずつと級の上の人で、そんなに善くは知らない人だもの。それに僕はあんまり好きでない人だもの。級が上で、善くは知らないのだから……」
善くは知らないのだからといふ言葉には殊に調子を付けて繰り返して言つた。
「だつてせつかく態々《わざわざ》來るのだから……そんなに内へ遠慮なんか、お前、しなくつても可いのよ。おつ母さんがお休みになつて居たつて、姉さんが御飯ぐらゐ世話してあげるから。」
「だつて姉さん、僕よりずつと年の上の人なんだよ。もう二十より上の人なんだから……それに僕アそんなに善く知らないんだから……」
「兎に角お前もう起きて顏をお洗ひ。そしておやつをお食《あが》りよ。」
姉は下へ降つて行つた。少年はなほ寐たままでいろいろの事を考へた。そして
Desperately……desperately……
と獨語(ひとりごと)を言つた。
時計は四時半を過ぎてゐる。次の列車の着する迄にはまだ一時間ばかりの間があつた。
少年は立ち上つた。その刹那、殆ど口へ出るばかりに、心の中で、かう叫んだ。
「僕は死んであやまる!」
「拜啓暑氣|嚴敷《きびしく》候處貴君は如何に御消光なされ居り候や明媚なる風光と慈愛に富める御兩親またやさしき御姉妹の間に愉快に御暮し居り候事と存候|陳者《のぶれば》小生も一月ばかり御地にて銷夏致度就ては成るべく町外れにて宿屋にあらざる適當なる家御尋ね置|被下間敷哉《くだされまじくや》但自炊にても差支無之候……」
二週間ばかり前に富之助は鹿田から突然かう云ふ手紙を受取つた。その時は既に封筒の名を見ただけで一種不安の心持を起して、中身を見る氣にならなかつた。それでも封を切つて内の文句にざつと目を通すといよいよ不安になつた。細かに熟讀する勇氣が出ない。唯彼が來るといふことを知つただけで胸が一杯になつた。
其後程經て八月三日に御地に行くから案内を頼むといふ葉書が來た。
彼の不安は何故であるか……と云ふことに對しては、彼は自ら答へることを恐れた。成るべく其事をば考へまいとする。それで完全でなく、切れぎれに記憶像が頭に浮ぶのである。
或時は彼は鹿田の袴を持たされて、對外ベエスボオルの日に、横濱の公園側の道を歩いて居た。その時鹿田は酒で顏を赤くしてだらしのない風で街道を漫歩し、美少年たる富之助を頤使《いし》するといふことを自慢にしてゐるらしく見えた……
また或時は……隅田川のボオトレエスの日……彼は鹿田の友達に顏をひどく打たれて鼻血を出したことがある……
思ひ出すのを恐れるやうな記憶がその他にいくらもあつた。そして聯想が彼の不可解の禁苑としてゐる記憶圈内に入つて行くと、恰も鋸の目立を聞いたやうに、或はまた齲齒《むしば》へ針を當てたやうな激しい不快感を起して、それから先へ進むのをひとりでに阻止した。
その他にまだ朧ろげにも一つの不安がある。是は彼の空想に屬することであつて、自分がそんな空想を抱くといふ事それ自身が彼の自覺には堪ふ可からざる苦痛であつた。――鹿田の手紙の文句の中に「やさしき御姉妹[#「やさしき御姉妹」に傍点]」云々の文字があつた。それが氣になるのである。
富之助の姉のおつなは今年の三月迄東京の學校に居た。そして鹿田は蔭ながらおつなの事を善く知つて居た。
おつなは二十一歳で美人であつた、富之助はおつなのことを姉ながら神々《かうがう》しい女だと思つて居た。
美しい神々しいおつな……獰猛《だうまう》な鹿田……富之助の頭のこの烈しい對照《コントラスト》が更に幾多の不祥な聯想を呼んだ。或ものは鮮明に表象に現はれた。或ものは意識|閾《ゐき》下に壓《お》しつけられて、ただ不安な心持だけになつてゐる。
夏休み前に鹿田が富之助にじやうだんを云つたことがある。……僕が君に對する愛は弟に對する愛だ。それが僕の不謹愼の爲めに邪道に落ちたのだ。君のシスタアに對する愛はこれこそ本當の神聖なる愛だ……
……富之助は今假睡から起き上つたがまたゆくりなくも同じやうなことを考へた。頭がくわつとなつたが、それが治まらないで、輕い頭痛と變つて、蟀谷《こめかみ》が痛んだ。時計が五十分に近《ちかづ》いた。刻々にその刻秒の音が聞えるほどあたりは靜かである。時々七面鳥が物に驚いたかのやうに啼いた。
突然に富之助は二階の隅の机の上に腕を當てた。ちやうど泣くやうな姿勢をしてその腕に顏を埋めた。
「僕は死んであやまる。」さう小さな聲で言つた。
少時《しばらく》して富之助が下に降りて來た時には、珍らしくも父が、内の人の居間になつてゐる八疊に居た。姉と妹も居、母も床から起きて來てそこに居た。富之助は父の顏を見ると、何か隱れてゐる事を發見せられはしまいかといふ心を起した。そしてずつと其部屋を通り拔けて、臺所の方へ行つて顏を洗つた。
白い大きな瀬戸引の金盥に水を入れて、成るべくゆつくりゆつくり顏を洗つた。皆と會ふ時間を一刻でも延ばさうとするのである。さうすると父も或は座を離れるやうなことがあるかも知れないと思つたからである。
然し富之助が八疊に來た時には父はまだそこに居た。今日はいつになく温和な顏をして居たが、それでも富之助には不安であつた。
今まで富之助の父に對する不安は試驗の點數を問はれることであつた。死んだ長兄が非常に秀才であつたことが長く父の頭に印象してゐて、富之助はいつもそれと比較せられた。
父が言つた。「今日はお前の友達が東京から來るさうだが、試驗の事も分るだらう。」
この語《ことば》は色々な意味で富之助に甚《はなはだ》しい恐怖を與へた。どぎまぎしながら、善くも考へないで富之助が答へた。「友達つて云つても本當の友達ぢやないんです。だつてずつと上の級で、それに年も隨分上ですから……」
無論父親は決して富之助を苛《いぢ》める爲めに富之助に尋ねたのではなかつた。實際子を思ふ至情からであるのだが、それが富之助には獄吏の笞《しもと》かと思はれるのであつた。
富之助の心中にはかういふ不安があつても、然し知らない他人がこの一家團欒の景情を見たら、いかにも清い幸福がこの一室を罩《こ》めてゐると思ふに相違なかつたらう、富之助の父はもう職務を廢《や》めて、舊稿の詩文を集めるといつて一室に籠つてゐて、聖者のやうな生活をして居る。またその母親はこれほどやさしい母親はあるまいと思はれるほどにやさしい。二人の姉妹もまた神の如く、また天使のごとく尊くまた愛らしい。
富之助の心中に「死んであやまる」といふ言葉の彫り付けられてゐることは誰も外から之を讀むことは出來なかつた。
六時二十五分の終列車が着いた。それと殆ど同時に一列車がこの驛から出發して行つた。段々近づく或は段々|遠《とほざ》かる汽車には、汽船とはまた違つた一種の活動味があつて、敏捷なる動物を想像せしめるのであつた。
朝から曇つて居た空の一面が破れて、夕日が其半面を現はした。白茶つぽい――砂の多い街道には日の反照がぎらぎらして、明日天氣になつたらさぞ暑いだらうと思はしめた。
停車場から街道へ出て、それ故、急に蝙蝠《かうもり》傘を擴げる人もあつた。そして白い扇子が同時にぱらぱらと開かれ、大勢の人の胸の邊でひらひらし出した。
停車場の構内と街道へ續く廣い空地との間には疎《まば》らな黒塗の柵があつて、その根本のところにちよろちよろと青草が出てゐるが、肥料が足りないと見えて元氣がない。正直に街道へ出るより、その柵を超えた方が、極僅かだけれども道が近くなるので、低い柵の一部は破壞せられてそのままになつてゐる。その傍には砂利が山のやうに積んである。
停車場から出た一群の人々は、それぞれに相別れて自分の行くべき道を歩いて居るが、その中に白い飛白《かすり》を着て帽子を被り、手に蝙蝠傘と、大きい四角な、然し輕るさうな包を持つた二十四五の男は、他の人が眞直ぐに前方を向いて歩いてゐるにも拘らず、不案内さうにあちらこちらを見※[#「※」は「えんにょう+囘」、第4水準2−12−11、234上−12]はし、それでも或方向へと街道を大分歩いて來た。
道が平行に幾本かに分れる處へ來ると、はたと足を停めた。見ると角に小さな印判屋があつて、その店では煙草やちよつとした雜貨を賣つてゐる。わかい男は之を見出すや否や、その店の方へ歩み寄つた。
「ちよつとうかがひます。」うつろな一種の響を持つた聲である。印判屋の亭主が小さい刀の手を休《や》めて顏をあげると、わかい男が尋ねた。「あのこの邊に土屋さんて家がありませうか。」
主人は冷淡に、然し煩《わづら》はしいといふのでもなく應じた。「土屋何といふのですか。」
「土屋……土屋富之助といふ、東京の中學へ行つてゐる學生の家ですが……何でも停車場からさう遠くはないと聞いてゐましたが。」
「さうですか[#底本では「そうですか」と誤記]。それなら土屋守拙さんといふ學者のお宅でせう。それならこの道を眞直ぐに行くと石垣のある家の角に郵便函がありますが、その四辻の角を左に向くと小さい橋があります。その岸を川下にお下んなさい。直ぐです。黒い塀が※[#「※」は「えんにょう+囘」、第4水準2−12−11、234中−4]つて、大きい銀杏樹のある家です。」
「さうですか、有りがたう御座います。」
そして青年が辭し去つた。……
かう云ふ青年の動作をまんじりともせず見て居た人がある。それは言ふまでもなく屋上の少年であつた。そして青年が印判屋の角へ來るところまでは突き止めた。隱れんぼをする子供が、見つかりさうになりながら急に逃げ出すといふ刹那の心理を以て、彼は倦《あ》かず此青年の擧動を視察した。
青年の姿が印判屋の軒下に隱れた時に、彼ははつと心を周章《あわて》させた。さあどうしよう、もう五分とは經たないうちに彼の青年は自分の家の門前に來る。
――少年は倏忽《たちまち》屋根から下つた。そして他の人に怪しまれない限り急いで庭へ出て、そこから麻裏草履をはいて河の方へと驅け出して行つた。彼はもはや策が盡きて、どうかして時間の餘裕を作るべく逃げ出したのである。途中
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