漁夫に言つた。
「人が一人海から戻つて來ない。」
漁夫は少年の言つたことが理解せられないやうに、怪訝《けげん》な目付をした。「何ね。人がね。」
「沖へ出て戻つて來ない。」
その返事と同時に漁夫が叫んだ。「沖へ出て戻つて來ないね。――そりや大變だ。」
さう漁夫が言つたから少年は喫驚《びつくり》した。そして突然泣き出した。
「誰だね、あんた。」と漁夫が問いた。
「家い來て居る富さんて云ふ友達だ。」
「そりや大變だ。――着物はあるのかね。」
「着物と下駄はあの船の下にある。」
「そりや大變だ。」と漁夫は三度さう云つた。「あんた此所に立てお出でな。わしやあんたつち家《うち》へ行つて皆《みんな》あ呼んでくる。」
漁夫は急いで驅け去つた。少年は濱に立つてゐる。水の上に若しや人の頭らしい黒いものは見えないかと、きよろきよろ海の上を見乍ら立つてゐる。
海は再び靜かになつた。唯|渚《なぎさ》に小さい波が崩れた。
此靜けさは、然し今に大變な事の起る前の時の氣味の惡るい靜けさのやうに見えた。
忽ち一群の人々が濱へ驅けて來た。濱は忽ち大騷ぎとなつた。それでもなほも引きも切らずに、大勢の人々が濱へ濱へと驅つた。
「山長のとこのお客さんが海で見えなくなつたつて。」
「今濱ぢや船を出した。」
「地引網の衆を頼みに行つた。」
「潜水の女しを搜しに行つたが、生憎《あいにく》一人も家に居なかつた。」
人々は道を驅けながら、互に磨《す》れ違ひながら、こんなことを話し合つた。
五六艘の船が沖合へ出た。
「この邊か、この邊か。」などと船の上から呼ぶ聲などがする。
「分るまい。あすこにや底に潮流があるから。」などと語つてゐる人がある。
船から大勢わらわらと水へ飛び込んだりするのも見えた。網が打たれた。
網の中へ死骸がはひつて、それが漁夫に取り出されるまでには、それから尚かなりの時間が掛つたのであつた。青い冷い重い屍體が濱の砂の上に上げられた。
「お前たちそこへ立つでねえぞ。」と山長の若い旦那が叫んだ。そこへ巡査が來てまた見物を制した。
「どうですえ、此處ぢや、あんまり人立がしますから、あすこの裏を借れちや。」
「さうさ。お前さん一つ頼んでおくんな。」
赤い毛布で包まれた屍體が海濱の漁夫の家の裏庭へ運ばれた。それでも大勢の子供たちが木戸の外から眺めてゐる。
「もう脈がない。」と醫者が言つ
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