つた。「今朝僕の下宿の隣の家へ東京から女學生が二人來た。自炊をするのだつて云つて。それが君の姉さんの友達だと見えて、君の姉さんも尋ねて來られた。」
富之助はこの言葉を聽いて二度ぎつくりとした。ぐづぐづして居られないと思つたからである。然し鹿田が直接富之助の姉に就いて語つたことは是れが最初であつた。また最後であつたかも知れない。
舟が岸に戻つたときは、もう薄明《はくめい》の時だつた。富之助が舟から色々のものを取り出してゐると、後ろでやさしい聲が聞えた。
「富ちやんかえ、たいそう遲くなつたねえ。」
見ると姉が隣の子を背負つて岸に立つてゐる。夕方のぼんやりと青ずんだ空氣の中に、其ほのかに白い姿は魔のやうであつた。
「あんまり遲いから迎へに來たの。」
姉は鹿田に目禮して、富之助にさう云ふのである。
二人は姉を先にやつて、漁夫の一人に荷を持たせて其後から行つた。
その時鹿田は一言《ひとこと》も物を言はなかつた。
一體鹿田が一日一日氣むづかしくなつて行くのは富之助にも分つた。そして富之助に對する態度も夏休前とは全く異つて、異常に鄭重《ていちよう》で、少しも馴れ馴れしい所を示さなかつた。殊に今日釣に出てからは殆ど物を言はないで、唯考へ事ばかりしてゐるやうに見えた。
姉のおつなを見ると、よくは見ない風をした。
が富之助は鹿田のこんな風な態度を見て、無意識に或る事を直感してゐる。即ち心情に強い刺戟をうけた野蠻人に對する畏怖の念である。
富之助が鹿田の住んで居る宿へ行つて見た時には、鹿田はぼんやりとして煙草を飮んでゐた。本もない。荷物も何もない。唯机の上に鏡と化粧道具とがあつた。どうして毎日日を送つてゐるか想像が出來なかつた。
窓へ腰を掛けると、少し小高くなつた丘から、直ぐ目の前の海が見える。葵《あふひ》の花が薄赤く咲いてゐる。「あの家だ。」と鹿田が指をさして教へた。「東京から女學生が來た家は。」
姉の友だちのことは姉から其後富之助は聞いた。そして時々姉がその宿へ遊びに行くことを知つてゐる。鹿田の爲めには、もつて來いの状態である。さう富之助が思つた。「もう一刻も猶豫はしてゐられない。」
夕方歸る時に鹿田のゐる漁家の小さい息子が車に米俵を積んで町へ行くのと一緒になつた。そこで富之助はその子に聞いた。
「お前のとこに來た東京のお客さんは酒を飮むかえ。」
「へい、
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