た一事を思ひ出さずには居られない。――

 其夜も、自分は古い妄想に沈みながら路上を漫歩してゐた。その妄想といふのは、どうしたら今の日本に於て、自分等の一生のうちに、心から満足するやうな趣味の調和に会する事が出来るだらうかといふ疑である。自分はもう雲舟や、芭蕉や、寒林枯木や、寒山拾得で満足する事は出来ない。それかといつて西洋風の芸術はどうしても他人がましい。中村不折氏、橋本邦助氏等が新芸術、綱島梁川氏海老名弾正氏等が新宗教でもまだまだ満足は出来ぬ。して見ると今の世は渾然たる調和を望む事は到底不可能の時世である。フイヂアス、パラヂオ、ゲエテエ等が時では無い。サン・ペトロ・ジヨオルジヨオ、フアウスト等の生る可き世では無い。――結局自然主義の世だ。印象主義の世だ。成程自分等に、黒衣の男子と、白裸体の女子とを配する「草上の朝餉」(〔Manet, Le De'jeuner sur I'herbe〕)の趣味が興味のあるのも無理は
無いのだ。
 調和せざる事象に、時代錯誤に、溝渠の上《ほとり》なる帆を張りたる軍艦に、洋館の側に起る納曾利の古曲に、煉瓦の壁の隣りなる格子戸の御神灯に、孔子の尊像の前に額づくフロツクコオトの博士等に――是等の不可思議なる光景に吾等の脳髄が感ずる驚駭を以て自分等の趣味を満足して置かねばならぬ。
 かう云ふ粗い対照なら東京の市街にいくらでも転つてゐる。現に此、銀座街頭の散策の間にも自分は出遇つたのであつた。そこは丁度地蔵さんの縁日だつた。道の両側には、折柄の菊の花売がカンテラの陰で白い花に水を灌いでゐた。盲目の三味線弾は自分の足場を一所懸命で捜して居た。ふと気付くと月の良い晩だ。而かも沛然たる一雨のあとで、煙草製造工場の屋根が銀碧の色に輝いて居た。工場の屋背にはまた半球形の円頂《ドオム》があつた。それが月の陰になつて暗い紫灰銀色の空気に沈んでゐる。この珍らしい光景をみると、自分は、一体どこの国へ来たんだい! と怒号つてやりたくなつた。
 街道の舗石の上に一団の黒い人群が居る。街頭の謳者を行人が取り囲んだのであつた。
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※[#歌記号、1−3−28]高等女学校のスチユデント、
 腰にはバンドの輝きて、
 右手に持つはテキストブツク、
 左手《かたて》にシルクアンブレラア、
 髪にはバツタアフライ、ホワイトリボン……」
[#ここで字下げ終わり]
 自分は亦此処にも日本らしいからぬメロデイを聞いておやおやと思つたのある。若し自分が威尼西亜《エネチア》のカナアルの縁をでも歩いてゐるのなら、そこに恁んな節を聞かうとも、乃至はアリオストオ、タツソオ等が古き朗詠《スタチヴオ》を聞かうとも、此時のやうな不可思議な感じは抱かなかつたらう。併し自分は今東京を歩るいて居るのだ。河岸縁には鍋焼饂飩がぱたぱたやつてるではないか。煉瓦の壁の側の瓦斯灯には松葉の輪に「歌沢」とちやんと書いてあるではないか。こんな「髪結新三」的情調へあんなべらぼうなバツタアフライ、ホワイトリボンが這入つて来てたまるものか。然し、事実は、嘘のやうだが、事実だから仕方が無い。恁ういふ風にいふと、全く誇張した修辞法と思ふかも知れないが、知の外の、感情の上には確かに不思議だ。
 それから……自分はぶらぶらと京橋まで歩いて来た。「金沢」といふ寄席の隣の、何とかいふ小さいしる粉屋でしる粉をのんで、その家を立ち出でると、三味線の音は手に取るやうに聞えて居た。
 外は、夜が寒い。月は見えなくなつて暗かつた。唯金沢の二階は、ばつと明るく、灯の光が一面の障子を照らして居た。そこから三味線の音が聞かれるのであつた。軒行灯に「金之助」といふ名が見えたから、多分今のも、あのもう年増の女の三味線弾の長唄であつたらう。一挺ではあつたが、曲は何か賑かなものだつたと見えて、彼の長唄に特有な、短調な、強くリズミカルな節を幾度か繰り返しては、また次の撥音ばかりの荒い節に移つて行つてゐた。三四人の人が立つてたから自分も立ち止まつて聴いた。一寸と思ふ内につい釣り込まれて立つて居ると、そこに立つた人々は急に高声に罵り乍ら立ち去る処だつた。下の木戸番が、そこに立つ位なら内に入つた方が寒くないぜといふやうな皮肉を云つたのだと見える。
「べらぼうめ、天下の往還だ。立ちてえから立つたんだい。」といひながら印半纏の男が丁度歩きかけた。もう立つ人もなくなつた。ただ、まだをかしな女がまごまごしてゐる位なものだつた。前に縁日の通りでも、無理に、謳者の廻に立つ人の中へ割り込むやうには入つたりした、若い、吾妻コオトを着た妙な女だつた。そいつも然し行つてしまつた。で、自分もまた歩き出さうと思つて一足踏む時、まだ何だか後ろの方で人が呟くやうだと気が付いた。実際、矢張人が居たのだつた。頭の禿げた、ずぶよぼよぼな爺さん
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