島を一つ。」
自分が――宛もない――と思つたのは間違であつた。三味線の二階の下の店からは(そこは渡し舟の賃を取る所だつた。)急に人も見えないのに返事が聞こえた。
「二つですか?」
「一つ!」
「お釣りぢやあ無いんですか?」
「二銭!」
と高く答へた。まだ敷島が八銭の時であつた。
少時らくして年老いた男が客を一人載せて渡し舟を突いて居た。釣と煙草を女に渡して、それからまた、もうそこに集つてゐた二三の客をまた舟に載せて岸を離れた。その時自分も、昔の浄瑠理に出さうな舟にのつて、眠むたい三味線の音律をきき乍ら老人に竿を突かして、薄きカアマイン色に曇つた春の空気を岸のあなたに渡つた……
人は屹度こんな筋もない話を笑ふであらう。然し鋭敏な官能で、且近代の芸術に慣れた人の空想力はよく自分の不十分な描写を補つて呉れるのであらう。自分は安んじて更にまた話を続ける。
ああ自分はどうかして、せめてはかの日比谷公園の九月下旬の曇つた朝の枯草の匂ひを形容して見たい。柵で囲まれたやや広い方形の園の中には、秋のやや黄ばんだ雑草が思ひ思ひの空想に耽つてゐるやうに匂つて居た。昔の黒田清輝先生のスケツチに屡く見られたやうな、光線の為にコバルト色に輝いて居る一群の草刈女が、絵の中でのやうに草を刈つてゐる。刈られた草は山に積まれる。日は司法省の屋根の上に出てゐるのだから、柵に立つてゐる人には、枯草の、日を受けない陰の一面が見える。枯草の山の周囲の縁は黄金色に輝いて居る。陰になつた部は、言葉では到底形容の出来ない色に曇つてゐる。せめてあの色調――あの枯草の束だけでも、心ゆく許りに、日本の油絵の上に見たいと望まずには居られなかつた。
司法省、裁判所が日かげになつて漠々と紫色に煙つて居るのも美しい。その下の一列のポプラスの梢の蛍のやうな緑金色の輝きも心を引く。殊に目の前に、柵に沿うて横はつてゐる木は、漆に似て更に細かい対生葉を有つてゐたが、黄いろい枯葉を雑へた枝ぶりは絵画的に非常に心地がいい。丁度中から出て来た園丁に其名を尋ねたら「しんじの木つてえです。」と答へた。
草の中に子供が遊んでゐる。白い蓋をした揺籃車の中に嬰児が眠つてゐる。遠い小丘の下に盛装した一群が現はれた。――凡ては秋の朝の公園の印象を語るに適当な材料であつた。自分は油絵かきにならなかつたのを悔んだ。
唯出来る丈長く此印象を銘じて置く為めに、自分は友人を拉してその近くの料理屋の二階に登つた。さうして重い緑色のペパミントと濃い珈琲《コーヒー》とを併せ飲んだ。欄千の日差はやがて正午に近いといふ事を知らした。
「では皆さんに申上げますが、之は私の長男です……」階段に下りかかる時、葦簾の襖を隔てた隣室からかう云ふ言葉を聞いた。そこには本郷座的に礼装した一群が卓を囲んでゐた。高い島田を結つた女の後姿も見えた。年とつた男の人が今立ち上つて若い人を紹介する所だつたらしい。そんな声を聞きながら、自分等は再び外へ出た。
人は沈黙してゐる。足の爪先に病でもあるやうに、じつと物うれはしげに地の面を眺めてゐる。そこには海底のやうに緑《あを》い弧灯の波をうけて、白と紅との芙蓉の花が神経的に顫へて居た。
星のない八月の夜は暗かつた。どことなしに、然し、なつかしい夏の夜の光がおぼめいて居た。
噴水の夜の音楽。
暗く、陰鬱に、しかも懐しく悲しい水の曲節は、たとへば、西洋楽を聴くに熟せざる吾等若き東洋人がチヤイコウスキイの夜の曲のロマンチツクな仏蘭西的魯西亞的旋律をきく時に、どこかの国が、はたその国、その国民の烈しき情緒生活が音楽の後ろにかくれて居るとは感じながら、遂に其本体を摸索する事の出来ないやうな覚束ない心持を、池を囲む人に、女に、また青きポプラスの並木に、柔らかき夜の空気に起させて居るのであつた。
調和を失せる痛ましい日本が、一方に勤倹尚武を鼓吹しながら、同時また恁んな近代的情調を日比谷公園裏に蔵して居るといふ矛盾を笑はずには居られなかつた。
共同ベンチに腰を掛けた一群の人はどういふ感じを持つてゐるか、自分は切に知りたかつた。ここは義太夫のさはりに、新内に、宇治は茶に習ひ得た美的需要を満すに適する所ではなかつた。
高く昇る水は夢の如く白く、滾《はし》り飛ぶ水滴は叙情詩の砕けたる霊魂のやうに紫の街灯の影を宿して、さやさやと悲しく池の面を滑つてゐた。
その前に、美的趣味に於て亡国の民は黙々として、足の指先の病を憂へるやうに、俛首れて不可思議の音楽を聞いてゐた。
自分は八月の或夜日比谷公園を歩るいて、恁う云ふ光景に出遇つた事を覚えてゐる。
数寄屋橋を渡つて銀座の通りに出ると、そこはもう夏の夜の、涌くが如き歓楽の叫びにふるへて居た。
自分は銀座の通りの雑踏を思ふごとに、その横町で或秋の夜偶然出遇つ
前へ
次へ
全4ページ中2ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
木下 杢太郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング