市街を散歩する人の心持
木下杢太郎

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)獰《あら》く

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#歌記号、1−3−28]

〔〕:アクセント分解された欧文をかこむ
(例)〔Manet, Le De'jeuner sur I'herbe〕
アクセント分解についての詳細は下記URLを参照してください
http://aozora.gr.jp/accent_separation.html
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 東京の市街を、土曜日の午後あたり、明日は日曜だといふ安心で、と見かうみ、ぶらぶら歩るくほど楽しみなものはない。たとへば神田の五軒町あたりは、広い道の両側に柳の並木、日にきらめける鉄条の上をけたたましい電車の嵐、と思つて一寸道傍の店先を覗くと赤く汚れた温い硝子戸を越してお七、吉三の古い錦絵、その隣を乳房をあらはに髪を梳る女、銘は何れも歌麿筆としてある。
 全体が青い調子の横に長い方形の景色絵がある。広重といふ落款で鳴海の景とある。代赭の色の、はた白に浅葱の縞模様、特産の鳴海綾は並び立つ太物屋の軒に吊り下つてゐる。その前の街道をば荷を付けた馬が通る。旅人めく一群の人が通る。
 古い錦絵の包蔵した情調は音楽の如く散歩する人の心を襲ふ。一種の譬へ難き哀愁が胸の底に涌く。その絶ち難い愛着を捨てて猶も歩を進めてゆくと、思ひがけなくも一列の赤い郵便馬車の駆け来るのに出遇ふ。今得たまどかな気分は忽ち破壊せられたので、不安の眸を放つて、市街ををちこちと見廻はしてゐると、斜日に照らされて、夢の如く浮び出てゐるニコライの銀灰の壁が目に入る……神田の古風な大時計がぢん、ぢん……と四時をうつ。
 ――かう云ふ平坦な記述が他の人人にも興味があるかどうだかは知らない。併し自分には東京の景物ほど心を引くものはない。それも単に視覚と、聴覚と、或は空気の圧迫に感ずる触覚と、偶は又、日本橋、殊に本町、大伝馬町にきく酢酸、塩素瓦斯、ヨオドフオルム乃至漢法方剤の怪しい臭ひ、九月の頃にはまた通一丁目、二丁目辺、長谷川町の辺にきく、問屋に出始めた冬物の裏地のにほひ――是等のいろいろの匂ひに感応する嗅覚といふやうなものの方面から見てである。
 かくして市街の散歩者は二時
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