ナも、束京の淺草、京都の京極其他などに見られない一種の面白味がある。生活が手輕で實用的なのだ。たとへばその街區の數多き飮食店の如きも大阪見物の他郷人よりも同じ町の人の氣散じに便利に出來て居るやうに見える。且東京とは違つて遊樂の街區が略一箇所に集中してゐるからして、この市の鳥瞰は東京のやうに散漫でなくつて、一つの有機體《オルガニズム》としての大阪市の形態及び生理を味はしめる。
 燈が點いてから千日前の雜沓を、旅人の――他郷人の心持でなくこの市《まち》の一市民としての親しみを以て歩く事が出來た。そしてここの雜沓と、この褻雜《せつざつ》なる興行物がどんな必要《ネセシテ》を持つて居るかと云ふ事を知る事が出來た。
 汚い戲場と視官を刺すやうな色斑らな看板繪――大阪にはまだ淺草のやうに安いペンキ繪は入《はひ》つて居ない――三味線、太鼓及びクラリオネツト、かくて春日座の「兵營の夢」、第一大阪館の「河内次郎」、榮座の「住吉踊、稻荷山」、日本館の活動寫眞、常盤座の「忠臣藏宣傳」、女義太夫竹本春廣、其他釣魚、落語の類が人間の需要の反射として更に行人を誘惑して居るのである。
 短い時間で成る可く廣く大阪を見ようと云ふ欲望から、一刻も休まず歩き、出來るだけ興行物と云ふやうなものを覗いてみた。播重といふ寄席も、嘗つて君に話を聞いた事もあつたから一時間許り入つて見た。表の看板には「全國女太夫、修業發表機關」といふ今樣の云ひまはしの大文字が書き付けられてあつた。まだ顏の輪郭も固らない、世の中の事も碌に知らない十四五から十七八の女が、複雜な淨瑠璃の文句、またその内の藝術化せられた情緒情熱に關して深い理會のあるのでもなく、――差し迫つた何等かの藝とは全く別の必要からして――それでも愁嘆場の文句なんぞは多少の自覺した表情と、及び發聲の困難からの苦面《グリマツス》とで、同じく調子の合はぬ絃に伴はれて齒を剥き目をつぶるのを見るのは眞に可憐である。而して同時にこの生理的誇張が聽衆の特殊の興味《アンテレエ》を惹起すると云ふ事を知ると世の中の機關《からくり》に對して頗る樂天的な觀相を抱かしめられるのである。
 然し|首の習作《エテユド・デ・テエト》のモデルとして見る場合には又別種の面白味がある。ロダンの「|泣く女《ラ・プレエレエズ》」のやうな表情は罕《まれ》ならず遭遇する所である。若し夫れ皮肉なるドガアの畫題を搜し出すと云ふ事は既に予の領分外である。それはもつと深い透徹《ペネトラシオン》を要する。予は君の短篇《ノヱル》の類集《セリイ》に待たねばなるまい。
 此間に予は突然濁つた太い聲に驚かされたのである。「竹ちやん、竹ちやん、待つてましたあり――」といふ言葉が其瞬間に理會せられた。人はみな忽ち其方へ視線を轉じた。蓋し豫定喝采者の類であつたらう。餘りに年の寄つた銅色の顏の老爺が火鉢の縁を指先で撫でながら何も知らぬやうに俯《うつむ》いてゐた。其對照が既に滑稽以上であつたからして、轉じられた視線は豫期に反した弛緩の感じを以て再び舊に戻るやうに見えた。
 予は藝術を[#ここから横組み]△Illusion+△Connaissance[#ここで横組み終わり] といふものの極限《リミツト》として觀相しようと常々思つてゐるのである。舊《もと》の美學は唯藝術の假感の極限の場合をのみ論じて居るやうに見える。肉聲が織る曲節《メロデイ》、曲節の底を漂ふ肉聲――たとへば斯くの如き二つの軸の間を動搖する所に藝術鑑賞の心理作用が求められねばならぬ。或は此くの如きは完成せる――人を幻影の境に引いてゆく藝術を有せざる時代の人の思想ではないかと反問せられたなら予も亦返答に窮するであらう。藝術感及び實感の交錯は芝翫の八重垣姫、茜屋のお園の演伎の際、屡※[#二の字点、1−2−22]東京座や歌舞伎座の大入場の喧噪として現はれたものである。
 今の場合に於ても若し多少美しい女の太夫が、義太夫聲に雜《まじ》る實《じつ》の女の鼻がかる音聲で「これまで居たのがお身のあだ……」と云ひながら輕く右手の扇子で左の掌を打ち、膝の上に身を立たせるやうにして目を不定につぶりながら、何かを囘想するやうな表情《エキスプレシヨン》で滑なタンポオで唄ふと云ふやうな事があれば、多くの見物人は必ず其感動を拍手か意味のない呼び聲に現はすのであつた。何となれば此《ここ》は全く愼《つつしみ》といふ事から放たれて居た場所であつたから。若し一個の藝術的洞察者があるならばロダンの依つて名聲を博した所のものを又日本の材料から作り出す事が出來るのは勿論である。
 道頓堀へ出たら辨天座の前が大變賑かだつたから又はひつて見たくなつた。中々幕が開《あ》かなかつた。開《あ》いたら大阪の觀客に媚びる東京芝居の仕出しで一向つまらなかつたから直ぐそこから出た。
「まあまあ高
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