「ふものは、かかる屈強なる、最早分別も出た男のするものとしては甚だ馬鹿氣たものである。それ程價値あるものとは思はれない。それにも拘らず、一人ならず二十三十の人が揃つて踊る――而かも嚴肅な顏を以て、少しも詰らないと云ふやうな風もしないで踊るのを見ると、何か知らん、觀者は非常に感傷的な悲哀又は悲壯の心持になるのである。總じて多くの人が揃つて一事を演ずるといふ場合には、そこに一種の「力」の感じを生ずるものであるが、その活動の目的が大なるものより小なるものに行くに從つて、この感じに崇高、悲壯乃至可憐の第二の心持が附いて來る。多くの僧侶が涅槃の釋尊を一齊に諦視する古畫の表には悲壯がある。單に美しい藤娘や鷹匠の踊の地《ぢ》を附ける爲めに二十人の樂人が歌を唄ひ三味線を彈くのを見るときには、人をして涙ぐましむる哀愁がある。此の鹿島踊がそれを見る人々を動かすのはその二つの孰れの作用であるかは知らないけれども、兎に角一種の力を印象せられ、而して踊そのものはつまらないものだと感じたる見物は、この力の源をこの踊――この人間活動の裏に求めて止まぬのである。――即ち踊そのものの爲ではなかつたのである。而して是れは
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