ちかづ》くやうに――この波の高まりも段々と渚に近寄り、遂に笑の破裂するやうに、「ざ、ざ、ざ、ざ、ざ……」とさわがしく黒く囁やき、かくて沸騰せる波頭《なみがしら》は「ざつくろん――」と長く引いて碎ける。青い水の築牆は全く白い音の泡となつてしまふのである。それから水は、磨かれた蛇紋石の樣な滑かな渚をすべり、「ざざああ――るろ、るろ、るろ――」といふやうな優しい、然し彈性の抵抗ある音と言葉とを立てながら、さうしてまた靜かに「すら、すら、すら……」と引いて行くのである。もうその時は第二の波が高まつて、既に波頭が散り初めた時であつた。――かうして波は厭かず、やさしいいたづらを續ける。で、その引いてゆく波の一すぢ、泡の一つ一つにまで、折しも西山に近いたる夕日の影が斜めに當つて、かくてシヤボン玉《だま》の色のやうな美しい夢の模樣を現はすのである。
 かくの如き波の主なる運動の間に、また長い小説の※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2−13−28]話《エピソオド》に比す可き小さい葛藤がある。殊に渚を引く波の歸るもの、ゆくものの間に、かの蟻の挨拶のやうな表情、輕ろき優しきさんざめきがあるのである。
 靜かに心を靜めて、この波のなす曲節を聞いて居ると、かの漁夫の集會の時に歌ふ「船唄《ふなうた》」の調子を思ひ出さずには居られなかつた。彼がこれを生んだと云つては餘りに牽強ではある。然し海や波、その心持がこの唄の曲節と深い關係のないと云ふ事は全く考へられない。その唄のゆるやかに流れてゆく時、突然音頭を取る人の高い轉向《モヂユラシオン》に驚かされる事がある。それは突然大きい波が碎けた時の心持によく似て居る。またその唄の下に高い問答のやうな調子が長く續く所のあるのは、濱邊の聲高の生活が靜かな夕波の曲節を崩すのによく似て居るのである。
 この時も、予は亦突然|艀舟《はしけ》を陸《をか》にあげる人々の叫聲に驚かされた。船の陰で姿は見えないけれども、其聲からして、如何に人々が船を背負ふやうに腰をかがめて居るか、如何に綱を引いて居るかが想像せられた。「よう、よう、よう、よいや、よう、よう、……」といふ懸聲が 〔cadence'〕 に聞えるのである。
 ――その間に、僅か三十分許りしか經たぬのに、もう空も海も全く更衣《ころもがへ》をしてしまつた。自然銅のやうな赤も消えて、一面に日を受けた菫の花の青色でぎざぎざと大山一帶の 〔modele'〕 が平面的に現出した。殊に空は、それも水平線に近き所は、ちやうど試驗管の底に澱むヨオドの如く、重い鬱憂《メランコリツク》な紫に淀んでしまつたのであつた。
 その時に、一つの汽船の陰がかすかなる陸影の裾に現はれた。
 ――ぶらぶらと川口に出たら、ごみを燒いたあとに、こんもりと灰が積んであつた。阿夫利神社神璽の印をおした紙、南無普賢大荒神守、火不能燒、水不能漂、とかいた護符などが散らばつて居た。是等は海濱に棲む、「心」を持つた自然が作りだす所の一種の分泌物である。
 恰も遠き汽船に第一の汽笛を鳴らしたのである。
[#地から2字上げ](正月二日)

 今日は午後偶然に、例の萬祝《まいはひ》を著た人々のぞろぞろと街頭を通り過ぐるのに遭遇した。この二十人ばかりの人の中には子供も大分雜じつて居た。おとなの人々は、多くはその上に黒い紋付を羽織つて居たが、兔に角、七子か羽二重の紋付の裾から紅緑の彩色の高砂の尉姥、三番叟、龜に乘る人、「大漁」の扇を持つ人、また龍宮、寶船、七福神などの模樣の出て居る所は、また南國の海邊に似付かはしい「眞面目《まじめ》」の服裝であると頷かしめる。
 是等の老少不同の雜然たる人の群がこの一樣の服裝で統一されてゐると云ふ 〔paralle'lisme〕 はちやうど若沖の群鷄圖と同じ意味で著しく視官に媚びるけれども、同時に人をして彼等を diminutif に觀察せしむるに至るのである。それ故いよいよ藝術的である。
 遠くには海の青が見え、四周には冬の田圃、村里の傳説を有する山と森、生活しつつある市街の半面がある。そして街道の兩側には川、芝居小屋、料理屋、果物屋がある。その中を歩いてゆくこの二三十人の人の群を想像して見たまへ。
 殊に子供の腰揚げが深く、辨財天、毘沙門天、布袋、福祿壽の腰から下が青縞《めく》の地にかくれて、裾と足とだけが見えるのは興が深い。
 夜は水上の、燈あかるき船から船唄が聞えてきた。若し他郷の人の、此聲に慣れないものが聞いたならば、恐らくあれが人の聲の集りであるとは信じまい。實際それ程よく海の波の響に似かようて居るのである。
 二日の朝乘り初めと云つて、夜の暗いのに船を沖に出して、釣絲を繋がぬ竿で鰹を釣るまねをするさうである。その話は幾年も幾年も聞いたから、もとはさうしたのであらう。近
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