ケられて、形象を賦せられたる所の海の精靈だと云ふ事を暴露するに至るのである。そんな事は奈何でも可い。もうかの捕捉し難き海の精靈も、ソロモンの壺のやうなこの小さい祠の中に藏められれば、既に彼等の實際生活の役に立たねばならぬ。新しい船の新造下《しんぞおろ》しの時には、港頭を漕いで見せびらかす爲めの口實に、拜み祭られるといふ半間な役をするのである。實は、そのあとで酒を飮む爲めに、日頃素振の氣に食わぬ若い娘を海に入れる爲めに――其前の因縁《いはれ》ありげな儀式として彼等はこれらの海神の祠を拜するに過ぎないのだ。この新造下しの儀式は今は廢つた。海に入れられて水でびしよびしよに濡れた若い娘たちの痛ましい笑顔は、儀式といふ崇高な藝術的活動の裏にかくれた 〔e'rotique〕 であつたに相違ない。而して又一方には此種の羅曼底と結合して、變り易き天候に支配せらるる其日其日の生活が著しく彼等を現世的にし、而して冬も尚鮮かなる雜木山の代赭、海の緑、橘の實の黄色――是等の自然の色彩が彼等の心、服裝、實用的工藝品にけばけばしい原始的の grotesque を賦與する。――誰でも海郷に來てあの「萬祝《まいはひ》」と云ふ着物、船の裝飾などを見たならば直ぐに同じ感想を懷くに相違ない。
 今日の午過ぎ、またぶらぶらと海岸を漫歩したのである。すると正月の事であるからして、船は何れも陸に揚げてあつて、胴の間には竹、松、橙を飾り、艫には幟を立ててある。小さい船のは、白か赤かの布である。少し高い所から見ると、殊に赤い旗は、土耳古玉のやうに眞青な海面の前に、強くにゆつと[#「にゆつと」に傍点]浮び出て、いかにも鮮かである。自然といふ印象派畫工《アンプレツシヨニス卜》の目もさむるやうな此筆觸の手際には實際感心せしめられるのである。またやや大きな船になると、幟の意匠も亦複雜になる。或ひは長方形の眞岡の布の上端に、横に藍の條を引く。その下に、それに并べて赤の條を引く。次には黒の紋所である。太い圓の輪を染める。輪の中に蔦を入れる。而して布の下端は水淺黄の波模樣である。或は黒の條、赤の條、丸に澤瀉の紋、その下の波の模樣に簑龜を斑らに染め拔いたのもある。或は波の代りに、斜めに引かれたる赤條で旗の下端を三角に仕切り、そこを黒く染めて白の井桁を拔いたのもある。紋は上り藤で中に大の字がはひる。紋と赤條との中に横に「正徳丸」と染め出される。一體船の名も、漁夫の狹い聯想作用に制限せられるので、また土地の關係、日常の簡單な精神生活を暗示する處が面白い。「不動丸」「天神丸」「妙法丸」などは日頃信心する神佛に因縁《ゆかり》のある名である。「青峰丸」「清通丸」に至つては唯彼等の語彙の貧しい事を示すに止る。而して彼等の色彩に對する要求は之を以つて滿足せずに、汽船宿の搏風を赤く塗り、和洋折衷の鰹船の舷を群青で飾るのである。
 東京では冬は、市街は澁い銀鼠と白茶の配調《アランジマン》が色彩の主調である。縱令《よし》天保の法度が出なかつたとした所で、よしまたその爲めに表《おもて》を質素にし裏を贅澤にすると云ふ樣な傾向にならなかつたとした所で、派手な冬の衣裳は周圍と調和せぬのである。故に一頃流行つた小豆色、活色《かついろ》の羽織は、動物園の中の暗い水族館の金魚を思ひ出させたのである。江戸が澁い趣味を東京に殘したのも故ある事だ。またゲエテはナポリ人《びと》が馬車を赤くし、馬首に旗を飾り、色斑らな帽子を被るのは趣味の野蠻なのではなくて、明るい周圍の爲めだと云つてゐる。同じ意味でこの土地に青い船が出來、あの「萬祝」の着物が出來るのである。
 自然でさへも輕佻である。一日の内に海や空が幾度色を變へるか知れはしない。遠く、水平線上に相模の大山の一帶が浮んで居る。予の見たのは夕方であつた。緑の水の上の、入日を受けた大山の影繪《シルエツト》は眞に一個の乾闥婆城《フアタア・モルガアナ》であつた。その赤と云つても單調の赤ではない。燈火に照らされた鮮かな自然銅鑛の赤である。而してその日かげの紫は、正に濁つた螢石《フリウオリイン》の紫である。其間にも殊に光つた岬影の一部は、あかあかと熱せられたる電氣暖爐の銅板より外に比較の出來ない光澤に閃めいて居た。遠く、こなたの渚からその不思議な陸影を眺めて居ると、いつか心は亞刺比亞奇話のあやしい情調の國へ引き入れられるやうに思はれる。
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「濱の眞砂に文かけば
また波が來て消しゆきぬ。
あはれはるばる我《わが》おもひ
遠き岬に入日《いりひ》する」
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 一條の微かなる浪の高まりがあるかなきかのやうに、その銅城のほとりから離れて來て、段々と色は濃く、形は明かになつて――人に擬して云ふならば、或諧謔を思ひついた人が、遠くから話相手と目指す人に笑ひながら近《
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