桙フ情調の中へ移されてしまつて、可笑しい事だが虚言《うそ》ではない、止めても止めても涙が出る位に感動したのだつた。
今朝實は偶然遠來の少《わか》い親類の人を案内して、所謂舊跡廻りをして、山の途中から幟の立つて居るのを望見して始めて此の街區に祭典のあると云ふ事を知つたのである。それから、遂に、此町の内でも尤も海に親しい一小區域に出たのである。一瞥の下に予は如何に今日の凪の好い日であるかを知つた。溶かさない群青のやうに濃い海の一端に、岸に近く、一艘の船が盛裝せられて居る。青い水面の上の赤、白、黄――旗、幕、造花等の裝飾――是等は十分予の視感を喜ばすに足るのである。況んや、それが更に海邊の住民の生活の象徴であるに於てをや。此區に近づくに從つて高く聳やぐ幟、街道を跨ぐ提灯、幣束を付けた榊、夏蜜柑の枝、蝦、しめ蠅の類が見え出して來た。祭典の繪畫的要素は忽ちに予等にお祭の情調を吹き込んだのである。
高い、海と家とを直下に瞰《み》おろす例のお宮の石段には既に大勢押し懸けて居たのである。で予等も人の波を分けて石段を登つて行つた。例の青龍、白虎等の四神を頭に付けた鋒、錦の旗、榊の枝、其他|御酒錫《おみきすゞ》、供餅などを持つた人々が嚴肅に石段の上に並ぶ。そして何か重大なる事を期待して居るやうな顏をする。彼等は上の狹い廣場の鹿島踊の終るのを待つて居るのである。それが終へたらば直ちに動き出さうとするのである。そして坂下に集つて居る十人許りの男の子供は、皆法螺の貝の口を脣に當てて居る。また踊が終へたら鳴らさうとするのである。――此時既に予等は、海の波の諧音にも比すべき歌聲を聞いて居たのである。それは鹿島踊の人々の歌であつた。
狹い、崖の上の廣場の石の鳥居の下で、三十人許りの烏帽子白丁の人々が踊ををどつて居るのである。人の相貌《フイジオノミイ》に對しては殊に深い興味を有する予は、直ちに是等の人々の内から面白い表情や骨骼を搜し出したのである。が、取り分けて予の心を動かしたのは、その側に立つて歌だけを唄ふ四人の謳者《うたひて》の極めて眞面目な顏であつた。
歌の文句は善く分らない。「鎌倉の御所のお庭に椿を植ゑて、植えて育てて云々」といふのや「それ彌勒《みろく》の船の云々」といふのやの外には頓と解する事が出來なかつたが、それを音頭取つて歌ふ最端の一人は、海濱で屡見るやうな、まるで粘土で燒いた假面のやうな顏を持つた老人であつて、眼瞼縁炎《ブレフアリイチス》のしよぼしよぼした、灰白の睫毛の眼は一層その相貌をまじめにしたのである。この人は紋付の羽織を着て袴を穿かぬ。第二第三の人は揃ひの袴を着けて脇差をさして居る。比較的年はわかい。殊に第三の男は屈強な筋肉の、正に典型的の漁夫顏《れふしがほ》である。而も其の態度は異常に嚴格である。また假面的相貌に、絶大なる何物かに向つて心からの頌歌《ほめうた》を唄ふやうな極めて敬虔なる表情を刻んで居るのであつた。第四の人はまた年寄で、同じく袴をばはかなかつた。
此四人は、或は聲を揃へて歌ふ。或は少時《しばし》息を凝して踊の人の答の歌を待つやうに默す。或は踊の人々と共に唄ふ。
踊は左の手に幣束の柄を持ち右に扇を持つて歌ひながら踊るのである。ちよつと見た所では何《ど》う規律があるのか分らない。子供のする蓮華のはなの遊びのやうに開いたり萎んだりする。時々ごちやごちやんと圓く集つてしまつて、扇と幣束とを膝の前に寢かして、「そこ、そこ、そこ、そこやあれ、そこやれ、はいや」といふ。それで一節が終へたのである。それから復再び繰り返して踊る。
兎に角此踊といふものは、かかる屈強なる、最早分別も出た男のするものとしては甚だ馬鹿氣たものである。それ程價値あるものとは思はれない。それにも拘らず、一人ならず二十三十の人が揃つて踊る――而かも嚴肅な顏を以て、少しも詰らないと云ふやうな風もしないで踊るのを見ると、何か知らん、觀者は非常に感傷的な悲哀又は悲壯の心持になるのである。總じて多くの人が揃つて一事を演ずるといふ場合には、そこに一種の「力」の感じを生ずるものであるが、その活動の目的が大なるものより小なるものに行くに從つて、この感じに崇高、悲壯乃至可憐の第二の心持が附いて來る。多くの僧侶が涅槃の釋尊を一齊に諦視する古畫の表には悲壯がある。單に美しい藤娘や鷹匠の踊の地《ぢ》を附ける爲めに二十人の樂人が歌を唄ひ三味線を彈くのを見るときには、人をして涙ぐましむる哀愁がある。此の鹿島踊がそれを見る人々を動かすのはその二つの孰れの作用であるかは知らないけれども、兎に角一種の力を印象せられ、而して踊そのものはつまらないものだと感じたる見物は、この力の源をこの踊――この人間活動の裏に求めて止まぬのである。――即ち踊そのものの爲ではなかつたのである。而して是れは
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