か短い仏蘭西語の歌一曲を歌はれた。また演説もされた。予は氏の口から南蛮寺に対する言葉を聞いて大に感激した。
永井氏の「フランス物語」の話、湯浅氏の模写のベラスケスなどについてみんなが話しあつたと記録せられてゐる。
この時のパンの有様は今もよく記憶に残つてゐるが、詳しく書くのはめんどくさい。なんでも予は女の首を三つ大きく描いたアフイシユを用意して行つて、入口のつき当りの衝立に貼つた。出口清三郎氏といふ画家が当日出席せられたやうに覚えてゐるが、今はどうしてゐられるか。
この日パンの会を社会主義の会と誤認して刑事が二人来たといふ噂も立つて、今でも皆本当だと考へてゐる。たしかにそんな人二人がゐて隣の日本室で酒を飲んでゐたが、果して噂の通りであつたかどうかは疑はしい。
このかへりに、酒に酔つた山本鼎と倉田白羊とが永代橋の欄干からアアチのてつぺんへ攀ぢ登りそこから河へ小便をしたりして皆をはらはらさせた。
同年四月十日。パンの会。多分小人数の会であつたらう。
(同年五月二十一日。北原われわれの雑誌に「屋上庭園」といふ名を付ける。)
パンの会も段々認められて来て同年十一月廿七日、土曜日の有楽座の自由劇場(多分ボルクマンの初演)のはねた後東洋軒で「渋谷村の連中、岩野氏、蒲原氏、島崎氏、」それにわれわれのパン会の一部とが、総勢廿五人ばかり、岩村氏の音頭にてシヤンパンを抜いたりなどした。
明治四十三(一九一〇)年、二月七日。パンの会。山崎来り二人にてアフイシユをかく。予は異国情調にてかく。山崎は会には行かず。又パンの大提灯を作る。
会場は三州屋。定連のほかには藤島氏、鈴木鼓村氏、與謝野氏、水野葉舟、安成、その他ずゐぶん大勢であつたが詳しく日記にしるされてゐない。
同年二月廿七日、パン例会。集まるものは高村、石井、小山内、北原、吉井、長田の少人数であつた。
此日屋上庭園の二号が発売禁止になつたといふ知らせを得る。
同年十一月廿日。パン大会、三州屋。長田、柳、吉井、猿之助、南、高村、永井、山崎、谷崎、武者小路、小宮、島村、柏亭、青山、一平其他大勢。
此会は黒わく事件といふので有名であつた。それは「長田秀雄君の入営を祝す」と大書したびらに黒わくを附けたのを高村君が持つて来て壁にかけた。萬朝報の記者が唯一人来て居た。誰も知人がなく相手にされなかつたものだから憤慨
前へ
次へ
全5ページ中3ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
木下 杢太郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング