でしばしば会場になつたのである。
 また遥か後になつて小網町に鴻の巣が出来「メエゾン、コオノス」と称して異国がつた。
 わかいと云ふものは好いもので、その頃は皆有頂天になり而もこの少し放逸な会合に、大に文化的意義などを附して得意がつたものである。
 次に日記にのつてゐるだけの会合を抜萃して見よう。

 明治四十二年(一九〇九)一月九日、土。パンの会があつた。どこか処は忘れた。その夜森博士邸に観潮楼歌会があつて、パンに出席した二三人の人がそこに行つた。
 夜になつて雪が降つた。
(その月の十三日には上野の精養軒で青揚会が開かれた。上田敏氏が何か演説せられたと見え、予の日記には「上田氏怪気焔」と書いてある。)
(予はその月の十八日に、手こずつてゐた南蛮寺門前がやつと出来上つた。それで急いでそれを美濃紙に清書して、夜森博士邸を訪ね博士に之を示すと、それを閲読したあとで博士がはははははと笑れた。)

 同年二月十三日、土。パンの会があつた。処は分らぬ。伊上凡骨の処で木板を習つてゐるルンプといふ独逸人を神田の安田旅館に尋ね、それを一緒につれて行つた。

 同年三月十三日、土。パンの会。多分両国のこちら側の何とかいふ西洋料理の二階だつたであらう。ルンプも出席した。又珍らしいことに荻原守衛も来会した。また遅くなつてから島村盛助も来た。
 此夜は遅くなつて皆で万世橋の近くの佐々木旅館といふのに宿泊した。倉田白羊が「京都の浅井忠先生の弟子たちで、先生の法事の帰りで遅くなつたからとめて下さい」と頼んで宿めて貰つた。予は今迄他家に宿泊したことがなかつたからこの一夜不安であつた。

 同年三月廿七日、土。パンの会。場処は不明。やはり同じ西洋料理であつたらう。「赤と緑の硝子より公園を見る」といふことが書いてあるから、或は誤かも知れない。石井柏亭の曰く「如何に巴里に於て遊楽するか」(何でも英語の本であつた)を東京で行らう。云々。たしかにさういふのがこの頃のパン会の気分であつた。
(この月の五日には観潮楼歌会があつて、佐々木博士、吉井、北原、與謝野、伊藤、古泉、斎藤、平野、上田、諸氏が集つた。この歌会の最も盛んであつた時である。)

 同年四月十日。深川永代橋畔永代亭でパンの大会を開く。此日には上田敏氏も上京中で出席せられ、皆で酒を強ひ是非巴里の歌を聴かせて下さいと云ひ、上田氏も余儀なく立つて何
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