ふしたと云ふのである。然し其戸棚はコップのしまつてある戸棚ではなかつた。下男と女中とが話をしながら臺所の庭にはひつて來た。
「おはつ、正吉が鹽をこぼした。片付けてやんなさい。」
 下男は、假にここに正吉と呼ぶことにした僕の顏を見て笑つた。僕の企《くはだて》を推量したのであらうと思つた。此下男は一昨年、僕が始めて東京に往つたとき、僕をおぶつて山越をした男である。峠の山ばたで「すいは」といふ灌木の葉を取つて僕に食はしたことがあつた。その「すいは」と云ふのはここに云ふすかんぽ[#「すかんぽ」に傍点]ではない。はつきりとは覺えてゐないが、どうだんつつじ[#「どうだんつつじ」に傍点]のやうな小さい葉であつたと思ふ。
 臺所の煤《すす》でてらてらと黒光のする大きな戸の表には、赤と黒との字の刷られた柱暦が貼つてあつた。
 さうして外へ出て、兼ねて打合はせて置いた場處で惡少と會ひ、一緒に低い岡に登つて行つたのである。道端には小さな川が流れてゐるが、水が甚だ好く澄んでゐる。今はもうさう云ふものが無くなつた。だが二十前年頃[底本ママ]までは、誰が植ゑたのか、ひとりでに生えたのか、葉の長い石菖《せきしやう》
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