お湯から帰ると同時に、病院から時子が今日退院してもいゝといふ知らせが来た。
『まあ、今日こそはつれて来られるのよ。時子が帰って来るのよ。』
 朝子は、いま家に入ったばかりの顔を上気さして、疲れも忘れたやうに嬉しさうに叫んだ。
『ぢゃ、いよ/\今日帰って来るんだな。さ、これからどうしよう。』繁吉は、椅子から立上ってやはり堪へがたく嬉しさうに手を上げた。朝子はまた時子を迎へに行く為めに良人をわづらはさなければならないかと思ふと、だん/\絵をかく時間の少なくなる良人が、気の毒でならなかった。朝子は、ふと考へるやうにして、
『私一人で車にのって、迎へに行って来ますわ。その間でもあなたが絵をお描けになればいゝと思ひますもの。』
『お前一人で大丈夫だらうか。』繁吉は、弱りきってる妻の身体と、子供のこととを半ばづゝに心配しながら、またカンヴァスの上に眼を走らせて云った。
『えゝ、大丈夫つれて来られると思ひますわ。』朝子は良人の顔を見ながら、一生懸命に云った。
『ぢゃ、さうしてくれ。俺はその間少しでも描いてゐたいから。』
『えゝ、少しでもお描きになった方がいゝわ。』
 朝子は元気よく、時子の着物を持って湯上りの体を車にのせて、人通りの少ない原や、屋敷の間を通りぬけた。彼女は、本当に少しでも多く、良人に絵を描かせたかった、本当に少しの間でも。けれども常に自分の肉体の弱さや、不意の出来ごと、やはり子供の病気などの為めに、殆ど彼に絵をかゝせることが出来なかったのを、悲しく思った。そしてまた秋が来たのであった。秋が来ると、若いトルコ帽の男や、髪の毛の長い男などが、大道を闊歩するのが目立つ。そして病める画家、老いたる画家までが、忙しさうに秋晴のなかに動き出すのであった。
 そして地位のある壮年の画家は、元気づいてにはかに腰をすゑたやうに見え、どこかに落ち込んでしまったかのやうに、誰れにも気づかれずに見えなかった女絵師が、急に厚化粧した女のやうに、けば/\しく目立って来るのであった。
 秋になれば、本当に寝てゐたやうな画家たちも、急に蘇生した人間のやうに、にはかにうろ/\と大道を歩き出し、展覧会場をねり歩き、互に夢見たことを語り合ふかのやうに、新しい画論や色彩について構図について力について、感激し憤怒し興奮して、喧《やかま》しく語り合ふのであった。
 朝子は、其画家たちの喧騒を見たり聞いたりした。そして、其中に良人を見ることが、寂しくもありまた誇りでもあった。そしてまた秋になれば、彼女はいつも画家である良人の為めに心が動くのであった。
 彼も画家の一人であるならば、秋毎のサロンに一枚の小さな絵でも陳列されるやうに願ったけれども、彼の絵は二度とも落選した。
 朝子は、それを最初良人の絵の価値にかゝはるやうに思ったけれども、今ではそんな事を少しも思はなかった。只、良人が少しでも多く絵を描くことが出来るのをうれしく思った。

 朝子が、そんな事を思ひながら俥からおりて、廊下はづれにある時子の病室の方を気にしながら、長い廊下を通って、時子の病室をそっと覗くと、起き上ってた時子は、すぐに草履の音を耳にして、黒い大きな瞳《め》を彼女の方に向けた。そしてまだ元気のない笑ひを浮べながら、何かを願ふやうに、
『母ちゃん。』とあまり高くない声で呼んだ。
[#一字下げ忘れか?207−4]あさ黒い顔をしてゐる時子が、赤い袷を着せられて、相変らず細い首を出してゐる。
 朝子は、ベッドの上に半分のるやうにして、時子のほっそりした小さな頬に顔をすりつけた、そして、
『あゝ母ぁさんに抱っこして、お家に帰るんですよ。時ちゃんのお家《うち》に帰るんですよ。』と云った。
 看護婦の杉本さんは、なにか洗物でもしてゐたと見えて、裾をからげて入って来ると、
『さゝお家に帰るんですわね、お母さんに抱っこして。』と、朝子とおなじやうなことを、笑ひながら云った。けれど時子には、そんな事はどうでもよかった。そしてまたわからなかった。恐ろしい疫痢の為めにしばらくの間牛乳とおも[#「おも」に傍点]湯の少量より食べることが出来なかったので、少し身体の快復して来たいまは、只、人の顔さへ見れば記憶にのこってゐる、パンとバナナとを欲してゐるのであった。
 杉本さんが、時子の熱臭いやうな一種の妙な臭のする、小さな垢じみた身体を、金盥に持って来た熱いお湯でふき初めると、朝子はつく/″\と我子のやせてあさ黒い、あかの浮いてる身体を見つめた。時子は身体をふかれながら、うま[#「うま」に傍点]/\が欲しいと云って、泣き出した。大きい声で力一ぱい泣き出した。
 朝子は、黙ってそのはげしい泣き声を耳にしながら、何にも云はうとしなかった。彼女はなんとも云ふ必要のないほど、子供の泣き声を快よく聞いたのであった。そして、黒い小さな顔一ぱ
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