の足跡や玩具《おもちゃ》などを見ては、何となく胸が迫って、寂しい心持になって行った。
 朝子は、二三日の間静かな二階の部屋に床をしいて横になってゐた。けれども、何と云ってとりとめて考へるでもなくて、只おど/\した恐怖と悲しみとの為めに、安らかに眠ることが出来なかった。
 彼女は、眼を開いたり閉ぢたりした。あけはなした縁には、いつもすみ切った静かな風が流れてゐた。朝子は、子供の病気の為めに夏がいつ過ぎてしまったのかわからなかった。あの不意なおどろきも悲しみもなげきも只夢のやうな気がした。あの幼い何も知らない子供を悪魔が奪って行く。その時は、いかなる父親や母親の力も、もはや何者も及ばないのだと、考へるより仕方がなかった。
 朝子は時々二階の欄干によって、遠くの森の方を見ながら、時子が今朝もかはりなく病院の白い大きなベッドの上に起き上ったであらうかと考へた。前の道や間近かで、子供の泣き声が聞えると、彼女の心ははっ[#「はっ」に傍点]として、なか/\胸の動悸が鎮まらなかった。あの細い黒い小さな頸を出して、疲れたやうな、けれども何かを欲するやうな黒い大きな瞳を動かして、ひょっくり起き上ることを思ふと、あの広いガランとした病室のなかに誰れも、杉本さんもゐないのではないかと、自分が少しの間でもはなれてゐるといふことが、涙ぐまれるやうな気がした。そして、毎日のやうに今日こそは、子供のよごれた身体をふいて、新しい着物にきかへさせ胸に抱いて、俥で家に帰って来ることが出来やしないか、再びこの家のなかに時子の姿を見ることが出来やしないかと思ふと、落ちついてることが出来なかった。階下《した》では、夫《をっと》の繁吉が絵を描き初めたのであらう、しきりに椅子や画架を動かす音がする。

 雨上りのやうなしめった静かな朝を、朝子は気がついたやうにお湯に出かけた。彼女はしばらく外に出なかったので、お湯に出かけるのも一仕事のやうに思はれた。朝子はやうやく外に出ると、お湯までのわづか半町《はんちよう》にたらない小路でも物珍らしく、一寸したことでもすぐに眼がついてならなかった。そしてその一寸したことすべては、夏から秋になったといふ事を思はせるものばかりであった。
 朝子は、誰もゐない朝湯のなかで、気のぬけたやうな心持でたった一人つく/″\自分の衰弱した、だるさうな身体を見つめた。どういふものか裸体《はだか》になると、鏡にうつる彼女の顔はまっ青だ。そしてやせて骨だらけな身体が死んだやうに白い。それに髪の毛ばかりが真黒でおもたさうに見えるのであった。
 朝子は、ポタ、ポタ、ポタと、どこかに水の落ちる音を耳にしながら、鏡にうつってゐる自分の身体をぢっと見つめて、ぼっとしたやうな心持になると、鏡のなかの自分の眼の色が白く妙にかはって行くのに驚かされて、はっ[#「はっ」に傍点]とした。彼女は鏡を横にして、あわてたやうに洗ひ出した。
 肺の悪い朝子は、この五月に発熱してながく床についてから、初めて自分の弱って行く身体を気にするやうになった。気にしないではゐられないほど弱って来たからであった。そして妙に涙よわく、力なくなったのも、身体が弱くなって来たせゐだらうと、彼女は考へた。
 一寸した日の照り工合やなにかの為めにも体温の変化がはげしかったりするので、朝子はなによりもその日の天気を気にした。それから食事や、一寸した痛みにも注意深く考へるやうになった。そして時子の乳もすっかりはなしてしまったのだけれども、朝子はなんだか、だん/\やせて弱って行くやうな気がしてならなかった。
 五月までは、胸にふくらんで大きかった両方の乳房が、すっかり肋骨《あばらぼね》にくっついてしまって、乳首が黒く小さくかたく、丁度花のしぼんだあとのやうになってるのを見ると、もうなんの誇る所もない、美しさもない、つかひつくした、老いはてた身体のやうに思ったりした。
 けれども朝子は、お湯から上って着物をきると、疲れの為めではあるけれども、さほどこけてゐない頬に赤味がさすので、若い彼女には心地よさゝうに見えた。そして彼女自身の眼にも、さほど弱ってないやうに見えるのが嬉しかった。
 朝子は、心地よさゝうな顔色をして家に帰ると、繁吉は、少しのひまでもといふやうにカンヴァスに向って描いてゐた。わづか少数の人にのみ知られてゐる画家の彼は、今年も晴れ/″\しい美術の秋の呼び声を、病院からつかれて帰って来るとすぐに、うす暗い彼の画室のなかで聞いたのであった。
 狭い室内には、大きな二つの椅子と三つの画架、机、絵の具箱、カンヴァス、灰皿、大きな口のかけた壺のなかには、黒いダリヤが花弁《くわべん》をおとしてゐて、足のふみばもなかった。そして、そのごた/\したなかに、日廻りの花のあざやかな黄が、どことなく寂しく眼についた。
 朝子が、
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